これはまだ俺が日本にいた頃の話。
陽射しがやけに激しくて、纏わりつく湿気がアスファルトで焼かれながら舞う、うだるような夏の日だった。
……いや、梅雨の晴れ間だったっけ?
雨が上がったと思ったらガツンガツンに気温があがってその時期にしては観測史上歴代二位を叩きだした日だった?
いやいや、春だっけ?もしかして秋?
冬でないことは確かだ。寒くはなかったはずだから。
まあ、とにかく、ある日、だ。
とにかく暑い日だった。
新しい街に越してきたばかりで好奇心旺盛だった俺は、親の目を盗んでこっそり街に一人繰り出したんだったと思う。
思いつくままに壁伝いに家の周りを一周して、地面の排水溝の穴を目で追いながら一個飛ばしに踏まぬように歩いたり。
塀の上をひょいひょい歩く猫を見つけて追いかけたり。
道端に生えてる雑草を引っこ抜いて捨てて道しるべに見立ててみたり。
まあ、なんだ。子供はなんでも面白がって遊びに変えてしまう生き物だから。
先のことを考えずに、今を楽しく生きる天才が、幼子というものだろう。
……つまり、非常に簡単に想像がつく通り、俺は迷子になってしまったのだ。
一度、自分が迷子ということを認識してしまうと、さっきまで楽しかった何もかもが酷くおぞましいものに思えてくるのも不思議なもので。
犬が柵越しにこちらをジッと見ているのが怖かった。
道行く大人が無表情に通り過ぎていく際、もしや手が伸びてきて攫われるのでは、勝手な想像がめぐったり。
引っ越してきたばかりというのが最大の恐怖だ。何もわかりはしない。
知り合いもなく、交番の場所だって知らない。
誰に頼ればいいのかわからない状況で、味方は親だけ……だけど、帰るべき家がわからないからこその「迷子」だ。
怖かった。ひたすらフラフラと彷徨い歩き、普段なら躓くこともない小さな段差や小石に爪先を取られてすっころぶ。
もう帰れなくなったらどうしよう。
いや、なったら、なんてもんじゃない。
だってもう帰り道がわからないのだ。
帰れない。
家に帰ることができない。
右に左に、フラフラと不安定に揺れながら、なんとか泣くまいと歯を食いしばった俺は必至に前へと進んでいた。
歩くことだけはやめられなかった。
止まって、誰か、得体のしれない敵に捕まったらどうしよう、という不安が休憩すらも許さなかったのだ。
高かった陽はじわりと傾き、徐々に赤みを帯び始めていく。
ああどうしよう。夜になったらお化けに食べられてしまう。
幼心の恐怖心爆発だ。
スンスンと鼻をすすりながら、誰もいない公園へ踏み込んだのは英断だったのか気まぐれか。
真白いベンチが陽に晒されて、そこだけ異様に明るく目に飛び込んできたのだ。
そこだけが安全地帯だと、なんでか錯覚した。
子供心って単純なようで難解。
妄想と現実がない交ぜになった複雑で綺麗な世界だった。
くたくたになった足を引きずってベンチへ腰を下ろすと、途端視界がじわりと濡れる。
もう動けない。喉も乾いた。水、と周囲を見渡すも、公衆トイレしか見当たらなくて。
心身ともに疲れ切っていた。
どうしよう。誰か。誰か。
声にならぬ声で、必死に助けを求めていた。
そこで、俺は……彼に出会った。
『……きったねえなぁ。何泣いてんだガキ』
突然、降ってきた声。
低く滑らかに空気を滑る声音は、凪いだ大人の男の低音だった。
全身を真っ黒な服で包んでいたけれど、瞳が銀色で、髪も銀色で、夕陽に染まってキラキラ輝く様は宝石のようで。
鋭い目つきと尖った口調にビクっと震えた俺は、怖いのと感嘆するのとでごちゃごちゃになって一切の動きを止めてしまった。
『こけて足が痛むのかぁ?それとも誰かにいじめられたか。男だったら情けなくピーピー泣いてんじゃねえよ』
反撃のひとつでもしてこい、と鼻を鳴らした男は、俺の腰掛けるベンチにドッカと音を鳴らして身を落ち着ける。
座ってなお上から見下ろす視線は、呆れたように半眼で。
『……はぁ?迷子ぉ?こんな何の変哲もない街で迷子ってなんだぁ。どっから何を観光しにきたっつうんだ』
胡乱なまなざしが、鼻を鳴らして息をついだ俺の顔をのぞきこんでくる。
咄嗟にビクっと体を竦めた俺に、男はハァと大きく溜息をついた。
『引っ越してきたばかり、だぁ?……まあ、そのうち親が心配して探しにくるだろぉ』
それともそんなに薄情な親なのか?と尋ねる声にうまく返事ができないものの、そんなことはないはずと首を横に振る。
そんなはずはない。そう思いたいだけなのかもしれないけど。
必要以上に不安に揺れる心持で、俺はぐっと唇を噛んだ。
『う゛お゛ぉいだから泣くんじゃねえ。……ったく……可能性の糸を辿ってきてみりゃ……とんだガキじゃねえかぁ』
最後の方がよく聞きとれなかったので首を傾げてみるものの、振動でポロリと落ちた滴に、男が嫌そうにまた溜息をついて。
やっと見つけた話し相手がいなくなってしまうような気がして、俺はまたじわっと涙を溢れさせる。
悪循環だ。
『……あー…わかったわかった。ちょっと待て』
しょうがねえなぁと黒衣の胸ポケットに手をつっこんだ男はすっと何かを摘まみだした手を俺の顔の前まで伸ばした。
白い手袋に包まれた指に、挟まっているのは……。
『これは魔法のアイテムだ』
見たこともないほど、キラキラと輝く緑色の石だった。
中に何か入っているのかと思ってしまうほど、内側からキラキラと金色に光を放っているようにも見える不思議な色合い。
夕陽が透けて見えているからだろうか、と見上げながら、俺は息を呑んでいた。
『固い守りにもなる。強い武器にもなる。望みを叶える魔法の石だ』
手まですりむいてんじゃねえかぁ、とふいに取られた右掌が、上を向いたまま引き寄せられて。
『これを貴様にやる』
ぎゅっと、まるで何かをなすりつけるように、押し付けるように、石が掌へと乗せられた。
『お前だけで使ってもいい。もしくは、大切だと思ったものに半分だけやってもいい。好きな時に好きなように使え。ただし……使えるのは強いやつだけだぁ』
だから、まずは泣くのをやめろ。
強くなれ。
機会があるなら武芸も磨け。
欲しいものがあるなら欲張れ。
泣いてる暇があるのなら走れ。
己の願いのために。
そうして俺は――――あれ?どうやってうちに帰ったんだっけ。
もらった石は――どうした?
使ったんだっけ?なくしたんだっけ?
あれ?
そもそもこれは実は夢にみたってだけなんだったかな。
夢と現実がごっちゃになって、どこからどこまでが想像で、夢で、妄想で、現実で、今で、過去で、未来で――――。
――――ああ、そうだ。
俺は、出会ったんだ。
彼と。
とにかく暑い日だった。
とても、とても疲れていた。子供の足で、引っ越したばかりの街中を歩き回っていたためだ――――。
とある少年と出会いの話