町を見下ろす高台の、煤と闇で黒く塗られた館。
そこには孤独を纏った怪人が住み着いていて、悠久の永遠を生きている。
ディンドン鐘が鳴る頃に、一人歩きはおやめなさい。
ディンドン鐘が鳴る夜は、彼がそこから降りてきて、餌を捕らえんと目を凝らす。
攫われてしまえばもう二度と、戻ってくることはできないよ。
町に伝わる御伽噺の歌を聴きながら、祖父の膝の上でツナはパチリと瞬いた。
PHANTOM for T
意識が浮上する感覚は嫌に緩慢で、思わず口元から息が零れる。
世界を拒絶するために覆っていた掌から顔を上げれば、辺りはすっかり陽が落ちてしまっていた。
街頭が瞬く中、首筋を撫でる風は針のように痛い。
思わず上着の襟をかき寄せて背を丸めた。
町灯りの奔流が勢いを増す中、赤い石畳とオレンジのレンガが連なるストリートの片隅、街路樹の根元に座り込んだまま――。
ツナは、そっと瞼を伏せた。
夢を、みていた。
幼い頃の夢。
顔は思い出せないけれど、とても優しい空気を持っていたことは覚えているおじいちゃん。
皺が強く刻まれた掌に頭を撫でられた記憶は今も淡く残っている。
膝の上に乗せてもらって教えられた、物語とも歌とも取れる言い伝え。
この町の、伝承。
どうして今、そんなことを思い出したのだろう…と心中で首を傾げながら、そっと瞼を開いた。
顎を上げ、顔を逸らせば、真黒で鋭利な屋根の突端を見受けることができる。
…そう。館は、実際に存在するのだ。
悠々と町を見下ろす高台の館は、おじいちゃんの言葉通り確かに真っ黒で、誰も近付こうとしなかった。
その館を取り囲むように生い茂る木々は森と化していて、野犬も蔓延っているようだ。
完全な駆除の計画すら立ち上がらないということは…少なからず、町の人々も伝承を信じているということだろうか。
館に、一人きりで住まう怪人の話を。
その答えは、否。
あまり気に留められていないというのが実情である。
まるで町の象徴かのように、一種のモニュメントと化しているといっても過言ではない。
どこかくすんだ黒の館。
彼は誰もが魅了される美しさを纏っているという。
造形が、というわけではなく、人間がどうしても見入ってしまう何かが…美しさを備えているのだとか。
それは彼の武器で、餌を得るための手段なのだそうな。
若い女を攫い、貶め、喰らう。
そうして長い長い永遠を生き続けていくのだと……。
彼の正体は誰も知らない。
ドラキュラとも悪魔とも言われているけれど……おじいちゃんはそのどれも当てはまらないと言っていた気がする。
彼は彼でしかない。
だから、怪人と。
唯一無二の化け物と……そして、決して近付いてはならないのだと、俺にそっと耳打ちしてくれた。
『彼の情を呼び起こしてはならない』
まっすぐに俺を見つめて告げたおじいちゃんの言葉が、冷たい水のように俺の脳を満たしていく。
意味はわかるが真意のわからない言葉。
どうして、今、思い出したのだろう。
親から子へ、子から孫へ……伝えられる物語は現実世界の事実を交えているけれど、信じきるだけの確証はなく…。
今の今まで片隅に追いやっていた記憶だったのに。
ふいに、背中を蹴飛ばされたかのように感じるほどの突風が座っている俺の体をよろめかせた。
体当たりしてくる冷気は痛みを増し、身体は芯から震えだし始める始末。
……家を飛び出して数時間。
そろそろみんな、俺が帰らない違和感に気付き始めているだろうか。
大きなお屋敷の中、限られた友人と限られた客人だけが俺を知る世界から、今解放されようとしている。
いや……きっとこのままではまた連れ戻されるに決まっているのだ。
俺は俺を捕らえて繋いでおこうとするその手から…逃れることもなく、抗うこともない。
何故なら不満があるわけではないから。
何不自由ない暮らし。
家族に、友達に囲まれる暖かく和やかな世界。
一人きりでの外出が一切禁じられているけれど、誰かと一緒なら町にだって来ることができるから。
旅行だって許される。
テレビや本で見られる『普通の生活』とは少し違うようだけど…それでもこれが俺の日常だ。
恵まれているのだ、俺は。
けれど……そこに、本当に俺の『幸せ』があるのかどうかが、わからなくて。
生きている意味を知りたくなる子供のように。
理由がないと息も出来なくなるような思春期のように。
俺の衝動が、屋敷から飛び出すことを提案したのだ。
コートと、こっそり隠しておいた財布をひとつ。
それだけで池も凍る寒さの中に飛び出してきた俺は世間知らずといわれても否定できない。
かまわない。
少し…ほんの少しの間だけでいいのだ。
外の世界における『幸せ』の定義を……垣間見ることさえできれば。
体験、できずともいい。
俺は、俺以外のことが知りたい。
ぶるっと肩を震わせる。
夜の闇は濃厚で、徐々に人の気配もまばらになってきた。
家路を行く人々の波に目をやりながら、ツナはそっと腰を浮かせる。
じっとしていては身体が固まってしまうかも、という幼い想像に目をまばたかせながら、ちかちかと点滅を繰り返す頭上の電灯を見上げた。
今宵の月は、白銀。
吐く息は薄く白く、夜に溶け込んで瞬時に失われる。
このまま……。
このままここでじっとしていたら、誰かが俺を見つけるだろうか。
朧に惑う決意は揺らぎ、それでもいいとさえ考え始めてしまった己の弱さに、ツナは足をもつれさせた。
ふらりと傾ぐ上体。
待ち受けているのは家中に敷き詰められている絨毯とは程遠い、とげとげしさの残る石畳。
体験したことのない衝撃に想像も及ばぬまま。
やってくる痛みに何の気もなく視線を伏せた。
と、ふいに。
何かが、来るべき衝撃を阻んだ。
ぼす、という鈍い音色とともに俺の身体を受け止めた黒。
それが上質な皮で仕立てられたコートだということは、目だけは肥えているからすぐさま理解できた。
咄嗟に振り仰いだ先は――月光。
「……そういうことか」
見知らぬ白銀の第一声は、己に言い聞かせるような苦悶を帯びていた。
倒れこんだ俺の両肩を支え、反転させたその人は直線的に俺を見下ろしながら薄い唇を開いた。
「眠れ」
有無を言わさぬ強制的な言葉の前に、俺の意識は理解を有するより早く陥落してしまった。