PHANTOM for T
「じゃあ行ってくるからね」
「みゃー」
「なー」
「留守番よろしく」
「…………う゛お゛ぉい」
館の正面玄関、ホールの真ん中まで見送りに来てくれたキョーコちゃんとハルを交互に撫でながら、俺は上機嫌で腰を上げた。
天気はすこぶるよろしい。
雲ひとつない突き抜けるような薄青の空は心を浮き立たせるばかりだし、柔らかさを増した風は冬を忘れさせるほどの温もりを纏っている。
スクアーロに頼んでどこからか出してもらった薄手のコートでも十分すぎるほどの気温はここ数日で珍しいほどの陽気だった。
計ったかのよう。
立派なおでかけ日和じゃないか。
「……う゛お゛ぉい!いつまで待たせる気だぁ!お前は支度に時間のかかる面倒くせえ女かぁ!」
「そういう言い方はないでしょー!女性には色々あるんだって母さんも言ってたし。っていうか俺男だよ」
「んなこた知ってんだよ!」
「だったら訊かないでよ」
「そういう意味で言ったんじゃねえ!」
「もーイライラしないでってばー」
折角の晴れやかな気分が台無しだ。
そりゃ、半ば強引に誘ったし、あれもこれもと計画して準備して鞄に詰めたりしていたから時間かかったわけだけれど。
……何が必要かとか、自分で考えるのも初めてだったし。
準備自体も楽しくてしかたなかったのだ。
ハンカチがいる。
ティッシュも必要。
出先で小腹がすくかもしれないから飴やチョコも忍ばせてきた。
雨具にお世話になることはないと思うけれど、濡れた時のためにタオルくらいは持っておいた方がいいだろうか。
とかとか。
鞄にぎゅっぎゅっと押し込める工程が胸を躍らせて、中々腰を上げられなかった。
チラリと見上げた壁の真ん中。
……なんと、もう日はてっぺんへ至ろうとしているではないか。
約束は、忘れもしない十時頃のはず。
陽の傾きが、窓の上枠にかかる辺りだって言ってたっけ。
時間の経過を、忘れていただなんて。
「ま、待たせてごめん」
スクアーロが俺の支度が済むのを待っていてくれたことは事実。
部屋に乗り込んでくるわけでなく、俺が出てくるのを辛抱強く待っていてくれたのだ。
もしかして、邪魔しないように我慢してくれたのかな。
いざ行かん、って時に文句を言うのは嫌味っぽいけど、俺にも非はあるわけだし。
素直にポロリと零れ落ちた謝罪は小さかった。
けれど。
「……まあいい。とにかく行くぞ」
ふ、と溜息を落としてクルリと背を向けたスクアーロは、両手を伸ばして重い扉を開き、真っ直ぐに外へと歩き出した。
気配に、背中に、怒っている空気は混じっていない。
許してくれたかな。
――それとも怒ってはいなかった?
まあ、どっちでもいいや。
「待ってよスクアーロ!」
置いていかれないように。
「みゃーお」
「なーん」
「行ってきます!」
見送りの声を思わせる甘い鳴き声を発する二匹を振り返りながら地面を蹴る。
カツン、と鳴った踵が跳ねて、踊るように。
スタスタと前を行く背中を見失わないよう、俺は小走りで玄関を駆けていったのであった。
獄寺くんや山本に付き添われて、何度か訪れたことがあるはずの町並み。
均等な感覚で並び立つ街路樹。
昼日中だから灯りを落とし、沈黙を守る街灯。
目にしたことがあるはずの地面、すき詰められた石の赤茶色がどこか鮮やかなのは俺の気分によるものだろうか。
車で抜ける間に流し見たことは何度もある色とりどりのショーウインドウも、気兼ねなく見つめることが許されるなんて。
「スクアーロ。なんか、すごい、ね」
「……そうだな。春が近いから置いてるものも華やかになってんだろぉ」
「うん。うん。そっか。そうなんだ。すごい」
スクアーロに抱えられて丘を飛び、森を抜けた先に広がる町は俺にとって新世界に程近い鮮やかさで目に映る。
落ち着きを促すように声を落としたスクアーロの解説は俺の言ったこととぴったり合っているわけじゃなかったけど、訂正を入れる余裕もないまま。
地面に降ろされた途端飛び込んできた華やかな情報量に俺の脳は眩むばかりだ。
すれ違う人々、波のような幾重にも重なる会話と混ざり合う車の排気音。
高揚感を誘うが如く頭上から降り注ぐ音楽は軽やかなポップで。
どきどきする。
わくわくする。
ぞくぞくする。
もう、なんだろう。
言葉にするのも難しいほど、もどかしいほど高まる感情。
こんな風に、まじまじと、壁のように囲う黒服の背に遮られず見渡すことができるなんて。
「スクアーロ。スクアーロ!スクアーロ!」
「なんだぁ」
「お、俺はどうしたらいいんだろ!」
「…………とりあえず、ちょっと歩くかぁ?」
「う、うん!」
胸がいっぱいで、軽く気が動転してしまった俺が真横に立つスクアーロの服の裾を握り締めれば。
「行くぞ」
「う、ん!」
皺になるからそれはやめろ、とやんわり解かれた指が、手袋に包まれたほの温かい掌に包まれて。
いつもの俺なら幼児じゃないんだから大丈夫、と振りほどくはずの拘束も受け入れたまま。
きょろきょろと周囲を見回す俺の手を引きながらスクアーロが苦笑混じりに微笑んだのを、俺は視界の端っこでちゃんと見ていたりした。
そんな顔もするんだ。
俺の記憶にあるスクアーロの笑顔は意地悪そうなしたり顔か、瞳がゆらゆらと揺れたままの不安定な微笑みか、だったから……。
そうだ。
俺はあんまり、っていうか結構、全然。
スクアーロのこと知らないんだった。
「ん?なんだぁ?」
俺に見惚れてたのかぁ?などと。
にや、と見慣れた笑みが俺を見下ろす。
……あー…うん、まあ、いっか。
今はそれどころじゃ、ない。
そういうことにしておこう。
「自意識過剰!」
それでもやっぱり見つめられるのには耐えられなくて。
ぷいっと顔を逸らしながら、繋がれたままの手をひっぱって、スクアーロごと人波へとダイブした。
「う゛お゛ぉい!いきなり走るなぁ!」
「お?あれ?スクアーロってやっぱり陽の下だと体力ごっそり落ちてたりするの?」
人通りの多いメインストリートを下り、軒を連ねていた店の姿がまばらになり始めた頃合。
突如増えた樹木の向こう側にだだっ広い芝生を見つけて駆け出した俺の背中へとスクアーロの怒声が飛ぶ。
おや?と思って振り返れば、珍しく小走りなどしているスクアーロがいたりして。
いつもならどんなトリックを使っているのかわからないくらい自然に気配を消して、俺の背後に現れたりするのに。
「モンスターやドラキュラと一緒にしてんじゃねえ!こんな往来で目立つ行動とれねえだけだぁ!」
「人の目は気にするんだ」
怪人なのに。
常識も偏見も無用。
屋敷の屋根から飛び降りたって無傷の無敵なお人が今更何を。
顔だけでなく身体全部でスクアーロへと向き直りながらも足は動かしながら、俺は小さく首を傾げた。
ピョンピョンと跳ね回るように後退しながら、追ってくるスクアーロを待つように。
時折よぎる視界の端には草の上に寄り添って座るカップルやボールを投げ合って遊ぶ子供達、お弁当を広げる家族なんかもちらほらと。
でも、姿も気配も消せるんだから、さほど問題ないと思うんだけどなぁ。
「認識してねえだけだぁ。それをソレと思って見ているわけじゃねえから何も気付かない。だが…一度認識されてしまえば後には引けなくなるだろぉ」
「ばれたら……く、口封じとかしなきゃなんないから?」
「それもないわけじゃねえが、何より面倒だからな」
色々と。
大股で俺の真横にまで辿りついたスクアーロは、語尾を濁しながらにゅっと手を伸ばしてきた。
何事!?と身構える暇すら与えられないまま、大きく開いた掌は俺の頭部をガッシと掴んで。
「それはそうと、いい加減落ち着けぇ!」
いつまでもはしゃいでんじゃねえガキ臭ぇ!
なんて言いながら俺の頭を前後左右、縦横無尽に振り倒した。
脳が!脳がシェイクされる!!
「い、いいじゃんかー!公園っていうのも初めてなんだよー!」
「この年で公園デビューか。だからって幼児に戻るにゃ体が成長しすぎだろぉ!おら!寄り道は終わりだぁ!」
「うーわー!ちょっとくらいいいじゃんー!」
「お前の『ちょっと』は全然『ちょっと』じゃねえことが今日証明された!」
なんでさー!ちょっとだけじゃん!
とジタバタ抵抗する俺をもろともせず、グイグイ引っ張るスクアーロの先導によって、公園を抜け、噴水の横を通った時。
木々の隙間から垣間見えた時計塔。
物見やぐらのようなこじんまりとしたものだけど……注目すべきはそこじゃない。
……あちゃあ。
無意味に色んな店を覗いて回ったのがいけなかったのか。
商店の列が終わっても強引にスクアーロを連れて町を練り歩いたのがいけなかったのか。
日差しの色の変化にも気付かないまま。
――あ。
意識した途端、身体の真ん中から出てきた振動と呻き声。
ぐうう、と。
空気が潰れるような感触と音色。
古ぼけ、くすんだレンガに包まれた、時計の針は直角L型。
食事を一回すっ飛ばしたおかげで小腹どころかおなかペコペコで、午後のお茶の時間を迎えてしまったのだった。
自覚すると表に現れるのが人間の厄介なところだ。
腹筋に力を入れて両手で腹を押さえて。
……そんなことをしてみても鳴る時は鳴るんだろうが、気休め程度に押し込める仕草を。
「……あー」
おなか、空いた。
だからといって腹の虫が鳴くのをおいそれと見逃せるほど俺は無神経じゃない。
か細く、立ち消える程度の声量で呻きを上げながら、そっとスクアーロの様子を伺う。
俺の腕を掴んだまま、古びた書店へと足を運んだスクアーロは店主らしき老人と何やら言葉を交わしている。
目当ての本でもあるのだろうか。
気を紛らわすように店内へと視線を飛ばすと、随分くすんだ色の背表紙が目立っている。
書店は書店でも古書を扱っているようだ。
古びた紙独特の埃っぽい匂いが鼻腔を擽る。
絵や本で見て、想像するだけの場所だったのだが。
「こんな風になってるんだ」
スクアーロの書斎とは違う、密度の濃い空間はまるで異次元で、肌がぞわっと粟立った。
怖いわけじゃないけど、薄暗くて、天井まで書棚が伸びてて、書物が詰まってて。
別の世界に迷い込んでしまったような印象がぞくぞくとくる。
ああ。
すごい。
「う゛お゛ぉい!いつまでもぼーっとしてんなよぉ!そろそろ自分で歩けぇ」
特徴ある唸りに肩を跳ねさせ、慌てて振り返ってみれば何やら小さな包みを脇に挟んだスクアーロが呆れるように突っ立っていた。
「田舎者じゃあるまいし。きょろきょろするのは許すが注意力散漫なのはいただけねえな」
「い、田舎者って」
俺だって、この町のはずれに住んでたんだから田舎者の部類には入らないもん!
……世間知らずのレベルでは誰よりも上回ってるかもしれないけど。
むっと唇を尖らせて、反論するにできない微妙な感情を抑えながらスクアーロを見上げれば、また、いつもの意地悪い笑みが俺を見下ろしていて。
「行くぞ。どうせ腹減りまくってんだろぉ。自業自得なんだと反省するなら奢ってやらなくもないぜぇ」
「むー……奢るも何も、俺お金とか持ってないからスクアーロになんとかしてもらうしかないんだけど」
「道端で芸でもして稼ぐって方法もあるが?」
「俺に特技がないことくらい想像ついてんでしょ!」
あーもう意地悪い。性質も悪い!
わかってるくせに改めて問うなんて根性捻じ曲がってんじゃないの。
ニヤニヤ目尻を緩めている辺りが無性に腹立つ!
――ああ、そんな時にも。
「う……」
ぐう、と空腹を訴える俺の身体は正直極まりない。
「ス、ク、アーロ」
「ん?」
「ごめんなさいもありがとうもいっぱい言うから……お願いだから、何か食べさせて」
両手で腹を覆い、完全に顔を俯かせながらの懇願。
情けないとか悔しいとか感じてる場合じゃない。
腹が減っては戦が出来ぬ。
戦をするわけじゃないけれど、空腹は罪だ。
……段々何を考えているのかわからなくなってきた。
「最初からそのつもりだぁ。早く来い」
呆れたように、意地悪さを一変させてフウ、と息をひとつ吐いたスクアーロは、俺の手首をとって軽く引いた。
途端、薄暗さと埃っぽさが漂う箱庭から眩すぎる日差し降り注ぐ外へ。
引き出された足は躓きかけたけれど、先導するスクアーロのスピードによって強引に整えられて。
まるで夜明けだ。
こんな風に連れ出されたことなんてない。
多少の荒っぽさはあるけれど、今はそれすら楽しいなんて。
どうかしてる?
うん。でも。
「あそこに出店がいくつか出てるだろぉ。どれでも食いたいものを買ってこい」
俺はこっちで飲み物を調達してくる。
そう言いながら手渡された財布には、事前に寄り分けられていたのかコインが数枚収められていた。
「俺の分も忘れんなよぉ」
「った!」
ピシ、とデコピンを食らわせたスクアーロはさっさと背を向けて売店へと歩いていってしまった。
なんでひとつふたつ余計なことをしていくのか……と思いつつ。
楽しいなぁ、なんて思ってしまう時点で俺はどうかしてるんだ。
いいじゃないか、たまには。
『初めて』は一度しかないのだから。
こうして自分の手で何かを手に取って買うことも。
コインを握って、走りだすことも。
誰しもが経験する『当たり前』が俺にもやってきたことに改めて感謝を。
ああ、やはり。
おかしな言い方だけれど……家を出て、スクアーロに攫われて、よかった。
上着のポケットに手を突っ込んだまま悠々と歩いていくスクアーロの背をチラリと振り返ってから、力強く地面を踏みしめる。
「あー!おなかすいた!」
すれ違いざまの男女がチラ、と俺を盗み見るのも気にせずに、俺は腹を押さえながら出店の立ち並ぶ広場へと駆けていった。
「……あれは…」
漆黒の視線が一対。
人波の先から彼らを見つけだしてしまったことに……誰も気がつかないまま。