PHANTOM 
for T



開かれた館の中、一度も近付いたことのないスクアーロの寝室。

それは館の奥の奥。

本棟の階段を上り、渡り廊下を越えて、一度階段を下り、廊下を突き進んだ先の階段を再び上へ。

北棟四階、唯一の一室。

まるで俺の寝室と対になるような位置で佇むスクアーロのプライベート空間。

幾度目かの夕食の席でたった一度だけ知らされたその道のりは、辿りつく意志ある者のみが足先を向けることを意味づけているのだと語っていた。

偶然で近付くことがないように。

たった一つの目的のためだけに作られた道筋だから。

ここへ、到るためだけの。

ややこしい道程は意志確認でもあるという。

ああ、そうだ。

今俺は、自分の意志で、近付くなと警告を受けたスクアーロの寝室の前へと辿りついた。



木目の大きなうねりが弧を描きながら天へと伸びる扉には、金の装飾が施されている。

葉脈がいきいきと張り巡らされた枝葉が、四方を縁取っているのだ。

そして目につく、ドアノブ。

「おな、じ……いや」

柔らかな金色の輝き。

連想されるのは俺に与えられた寝室を守るソレ。

けれど、目を凝らせばそれが同一ではないのだということがよくわかった。

俺の部屋のドアノブに施された装飾が花ならば、こちらは。

「枝葉なんだ…」

今にも葉を揺らしそうな枝が、絡まりつくように刻まれている。

触れるのをためらうほどに、活き活きとした様。

僅かなの逡巡を残しながらもそっと手を沿わせれば、金属の冷たさがヒヤリと肌を潤した。

様子を伺うように静かに、極力音を立てないよう手首を捻れば、免れることのない錠の上がるカチャリという金属音が扉の開閉を許諾した。

鍵はかけられていないらしい。

微かに掌が汗ばんだ気がしたけれど、そんなものは無視だ。

誤魔化すようにドアノブを握りこみ、腕を引いて扉を開く。

途端、ふと香ったのはスクアーロの匂いだった。

それだけで、ここに彼がいるという確信めいたものが立ち上がる。

薄暗い室内へと身を滑り込ませ、後ろ手に扉を閉じながら、フウ、と吐息をひとつ。



……訊きたいことがある。

突然の館の変貌。

スクアーロの力の所在。

そして何より……真意を。

あの、愛してるの、意味を――。



己の中にポツリポツリと浮かびる疑問を並べながら、俺はふと顔を上げた。

ソファ。

テーブル。

火の灯らぬ燭台。

天井から吊るされた簡素なシャンデリアは手入れが施されていて埃ひとつない。

こつこつと歩みを進めながら周囲を見渡し、俺は首を左右に振った。

スクアーロはどこにいるのか。

見渡す室内に気配はない。

けれど。

何故だろうか。

いつからだろうか。

どうしてか、スクアーロはここにいる、と確信している俺がいる。



パチ、と深く瞬き、瞳を世界に晒した刹那、だった。

古びた木目。

整えられた室内とは対照的なボロくも簡素を湛える異質のドア。

そのたたずまいにゾクリと背筋が震えた。

恐怖?

畏怖?

わからない。

けれど、どこか惹かれるものがある。

自然と動く足は、むしろ急くようにドアの前へと身体を進めて。

ノブをも木材で作り上げられたそれは蹴り飛ばせば非力な俺であっても吹き飛ばせそうなほど脆く思える。

鍵穴はない。

先ほど、金色のノブに触れる時に感じたような逡巡はチラリとも顔を見せないまま。

迷いなく、澱みなく。

俺はドアを引いていた。



「―――」

室内へ視線を宿らせた瞬間だった。

ひゅ、と吸い込んだ息が肺の入り口で詰まるような感覚。

視界が四方から狭まっていくような感覚。

引き絞られる瞳孔の中には。



探し人はそこにいた。

壁に手を付き、幾分輝きの薄れた銀髪をダラリと垂れ下げながら肩で息をする背中。

その様子は尋常ではない。

けれど。

「な、に……」

スクアーロに駆け寄ろうとする意志が、視界を埋める情報に阻害される。

目に写る、色鮮やかな色彩。

幾本もの溝が刻まれた太い額縁は年数を重ねてくすんだ穏やかな金。

所々に散りばめられた花の模様は降り注ぐように細かい。

俺の身の丈以上……スクアーロの立ち姿よりも頭ひとつ分大きなキャンバス。

描かれているのは。











「―――俺?」












胸から上が描かれた肖像。

左を向いた横顔。

金掛かった薄茶色の髪は長く、その末端がどこまで到っているのかは胸像だからわからない。

黒と白のレースに縁取られたドレス。

薄桃色のベール。

フワリと色づく唇は柔らかな曲線を描いている。

明らかに、女性だ。

なのに……微かに首を上向け、何かを見つめる微笑み。

その顔立ちは。



















「お前じゃない」




















吐息に掠れた声音が、瞬きすら忘れていた俺の意識を呼び覚ます。

ゆらりと傾いだ体躯が、壁をなぞって俺を捉える。

細められた瞳は熱にうかされるようにぶれ、深い溜息ひとつと共に閉ざされた。

「スクアーロ……っ」

ずる、と崩れゆく身体へと駆け寄る。

歩数にして6歩。

伸ばした両手は支えるためにわき腹へと差し入れて。

でも、考慮されるべき体格差を、俺はすっとばしていた。

「う、わ……!」

下へ沈み込もうとする力のベクトルを無理に変えようとした代償か。

足りない腕力で捻じ曲げた方向は自分自身に降りかかる形で。

スクアーロに押しつぶされるような体勢で、俺たちは床へと転がってしまった。

「あれは、お前じゃない。お前であって、お前ではない」

倒れた反動で投げ出された手を、ぎゅっと、捕まえるように握られた。

「……それでも、お前が、お前、なら……」

俺の肩へ埋められていたスクアーロの鼻先が、ゆっくりと離れていく。

ぱちり、ぱちりと繰り返されるゆっくりとした瞬きの度に、スクアーロの瞳はじわりと溶けていくように揺れる。

どうしてだろう。

訊きたいことがあった。

それこそ、溢れ出るほど、たくさん。

なのに……言葉が出ない。

紡がれる声の温度が。

揺らぎが。

脈動が。

俺の呼気を妨げる。

胸を、塞ぐ。

「ツナ」

呼ばれた名に、視線が震える。

どうして。

何故こんなに。

呼ばれただけで、心が震えるのか。



「っ!はっ――」

突如、ぬるりと湿った舌先が俺の口内へと滑りこんできた。

歯裏をなぞり、上顎を確かめ、逃げ込もうと引き込んだ舌に絡みつく。

喰らいつくされる、と見紛うほどの荒々しい口付け。

それは感じたことのない熱情を帯びていた。

熱い熱い肉の塊が滴りを纏って暴れまわる。

いつもの優しい優しい空気はなく、まるで奪われるばかりの侵略。

逃れることは許さないと言いたげに、顎がスクアーロの右手によって固定されてしまい、惑うことも拒むことも阻まれた。

「ん……ぐ……ふぅ…!」

ままならない呼吸。

鼻から吸おうにも吐こうにも、舐めつくされる口内の荒々しいリズムに阻まれて、タイミングが上手くつかめない。

水気を纏った粘着質な音が鼓膜を濡らす。

注ぎ込まれる吐息の熱さに意識が崩されるようで、俺はされるがままに身を投げ出すしかなかった。

ただ、圧し掛かるスクアーロの肩へ、囚われていない左手が突っぱねるように拳を握っていることだけが……俺の理性を繋いで。



なんで。

どうして。

こんな風に。

俺じゃないと言った。

でも、俺を呼んだ。

愛してると言ったじゃないか。

何かを重ねて?

誰かを重ねて?

俺じゃない誰かに言ったんだろうか。

俺じゃない、俺に似た人に、俺を重ねて告げたのだろうか。

熱を帯びたあの瞳は、俺のものではなかったのだろうか。



俺を透かし見て……絵の中の、彼女を見ているのだろうか。



ひっそりと、こんなところに隠して、眺めていたのだろうか、彼女を。



彼女は。



彼女を。



俺を。



俺は?



俺、は――。



「――!」

する、と顎を捕らえていた指が離れ、服の上から俺の身体をなぞっていく。

スクアーロが何を望んでいるのか、わかったような気がした。

食らう、ということの意味。

「ふっ……!」

解放された顎を動かし、暴れまわるような口付けから逃げようとするものの、蹂躙する舌からはなかなか逃れられない。

追われては逃げ、逃げては捕まり、暴かれていく。

「ん……ふ……」

時折離れる唇の隙間から繰り返される、鼻を抜ける呼吸に混じって零れ落ちる声音が耳に絡みつく。

自分の声なのに……どこか他人のもののようで。

緩慢な動作でしか表せない意識に、気を取られていた隙をついて。

「は、ぁ…!」

腹から。

服の合わせ目を裂くように、撫で上げる手が素肌を一気に駆け上った。











「やだ……!」











嫌だ。

こんなの。

どうして。

どうして。

どうして!

なんで。

俺を。

俺は。



俺じゃ、ないんだろ……!



じわりと湧き上がった涙が視界を埋め尽くす。

嫌だ。

泣いてなんてやらない。

零したくない。

こんなの。

こんなもの。

こんなこと。



俺は、望んでない…!







「…………」

切実な願いに反して、目尻から雫の塊がひとつだけ零れ落ちる。

ぽろり、とこめかみへ流れていく。

その刹那、だろうか。

ふ、とスクアーロの唇か離れた。

握り締めてきた左手も、肌をなぞった右手も、浮かされていた熱をも奪って去っていく。

カチ、と合わさった視線。

俺を見下ろし、離れていく銀の瞳孔は先ほどの暴挙を忘れさせるような冷気を帯びていて。

身を起こし、立ち上がったスクアーロは、俺へと視線を投げながら唇を開いた。







「消えろ」







ぞく、とおぞましいほどの悪寒が足先から手先へ、脳天から爪先へと全身を走り抜けた。

魅了?

いや、そうじゃない。

心が捻じ曲げられるような強制力は感じない。

あるのは……氷の刃を喉元に突きつけられるかのような、殺気。



「俺の前から消えろ。もうここにお前の居場所はない。目障りだ」

淡々と繰り出される言葉の端々には確かな殺気が込められていた。

冷ややか。冷淡。冷酷。

どの表現も追いつかないほどの、俺への殺気。

竦む身体が微かに震え始める。

息を吸うのも吐くのも、躊躇われるほどに。

消えろ、と叩きつけられた言葉の冷たさに、思わず耳を塞ぎたくなる。



拒んだのは、俺自身のはずなのに。



「お前は、喰らう価値もない」



「っ」

気付けば、俺は扉の向こう側だった。

地面を蹴り、扉を開け放ち、押し寄せる殺気を振り切るように駆け抜ける。

切れる息も蚊帳の外。

俺は、無我夢中で走っていた。

一度も振り返ることなく。

未練を振り捨て、悲しみをも脱ぎ捨てるように。

スクアーロが追ってくることなどないことは、混乱に渦巻く頭でも理解していた。

俺は、価値を失ったのだ。

食らうことも、殺されることもなく、放棄されてしまったのだから。

何も考えたくない。

突き刺さり、切り裂くようなスクアーロの言葉の数々も。

激しく乱され砕けていく俺の心の所在も。

何もかも。

ただ、ぽろぽろと流れ、尾を引く涙の熱さが記憶を閉ざすことを拒んでいるかのようで。



「十代目!?」



館を飛び出し、外門を潜り抜けたところで現れた、かつての友に抱きとめられた瞬間。

ブツン、と途切れ、沈み込む意識の水底で、俺は、彼の名前を呼んでいた。

































『これが、お前の選択か?』

がさがさと寄り集まった闇の塊が、赤い眼光を滾らせてスクアーロの前で凝り固まる。

ふん、と鼻を鳴らした闇は、瞬く間に黒と赤で彩られる男の姿を形作った。

壁へと寄りかかり、白むほどに握り締められた拳をガン、と叩きつけながら、スクアーロは顔を上げる。

「これが、俺の選択だ」

白銀の眼光を漲らせ、息を荒げながらもスクアーロは男をにらみつけた。

血が煮えるような熱を身の内に感じ、奥歯を噛み締めることでやりすごす。

「てめえの思い通りには、させねえ」

『ドカスが。どちらにせよ俺に損はない……が、面白みには欠けるな』

クツクツと不敵に笑む男は尊大に顎を開き、膝を崩しそうなスクアーロを見下した。

『しかし、どうやら、飢えた小鳥共がちょうどいい幕間を見せてくれるようだ』

くっくっく、と重ねられる哂い声は空気に滲み、ボロボロと崩れる闇と共に拡散していく。

消えゆく男に視線を預けたまま、スクアーロはぐっと唇を引き結んだ。



ツナとは入れ違いに、館へ入り込んだふたつの殺気を感知しながら。



「ツナを、貴様に渡しはしねえ…!」



慟哭によく似た、確かな決意と怒りを突き立てた。