PHANTOM for T



「はぁ…」

傷ひとつない天井。

小さな桃色の花模様が散りばめられた壁紙は電灯に照らされて白く輝いている。

木目がきらきらと光る机に頬を寄せれば、吸盤のように吸い付く感触が肌を覆う。

タンスや本棚、椅子、ゴミ箱においても全て艶を持って鎮座していて。

美しい造形物で固められた俺の鳥籠。

足枷も手枷もないけれど、見えない鎖が俺の首をつなぎとめている。

「はぁ…」

吐く息の沈鬱さに気付く者はいない。

出歩く自由を奪っておきながら『ここでは自由にして構わない』という難解な課題を置いて、誰も彼もが俺を放置するからだ。

ただ一人、生活を共にしている母さんだけが俺に微かな『自由』をくれるのだが、今は使用人の皆さんと一緒に家事へ従事している時間帯。

何をするでもない、何をするのも許されない俺はただ一人、鳥籠の中、箱庭の中、ぼんやりぐったり机に貼り付いているしかない。

やけに重い瞼をゆっくりと瞑り、砂のような細かな光の粒に包まれて、闇の中へと浸りながら。

「はぁぁ」

「ツーナー。さっき獄寺くんがすごい顔で……って」

胸につかえるような重い塊と化した息を落とし、額を摺り寄せてテーブルに瞼を押し当てた途端、遠慮なく開かれた扉の方から聞こえたのは花も踊るような涼やかで軽やかな声音。

噂をすればなんとやら、というやつだろうか。

まあ、思い浮かべただけだけれど。

「ツナ?」

「んー?」

「おなかでも痛いの?」

「痛くないよ」

「気分悪かったりは?」

「しない」

「そう。ならいいわ」

ごり、とテーブルの表面を額でなぞりながら微かに視線を上げれば、にっこり笑んだ母さんが正面の椅子を引いて腰掛けていた。

頬杖をついて、俺を眺めながら小首を傾げている。

「どしたの母さん。洗濯してたんじゃなかったっけ?」

「もう終わったわよ。お茶でも飲もうかと思って戻ってきたんだけどね」

うふふ、と微笑む母さんはやけに機嫌が良い。

とはいえ、母さんが理不尽に怒りを見せる時などあったためしがないから、不機嫌でないことはいつも通りなんだけど。

それにしても。

「なにかいいことあった?母さん」

「ん?んー……そうねえ」

ぱちり、と瞬きを繰り返して、母さんは頬から手を離して少し前のめりに口を開いた。



「ねえツナ。あなた、外でどんな人と出会ったの?」


















微かに鼓膜をよぎる轟音は響きの鈍さから察するにエントランスの置物が倒れたものだろう、と、庭先に立つスクアーロは眉間に皺を寄せた。

ツナと入れ替わりにやってきた侵入者は二人。

正々堂々と正面から扉を破壊して乗り込んできた彼らは、スクアーロをおびき出そうとでもいうのか、目に付く調度品を倒し、壊し、砕くことから始めたのだ。

つまらない挑発を、と思わないでもなかったのだが、スクアーロは動かざるをえなかった。

この館の全てが、己にとっての『全て』でもあるから。

所有物ではない。

共有物であるがため。

怒りはない。だが、壊されては困るのだ。

ゆえに、彼らの挑発は成功しているといえてしまう。

階段を駆け下り、廊下を走り抜け、一階エントランスで周囲を破壊する青年二人それぞれに足裏による一撃を叩き込み、すぐさま間合いを取ったスクアーロは、見せつけるように悠々とエントランス中央に降り立った。

壁際両端、対角線上に立っていた侵入者はどちらも若く己よりも頭半分ほど小さいの身の丈。

灰がかった短い髪を振り乱し、拳を構える青年と、蹴りを食らわせた腹を押さえながらトンファーを片手に不気味に嗤う黒髪の青年。

幕間、と嗤ったXANXUSを喜ばせる気など毛頭ないスクアーロは、最初から彼らと一戦を交えるつもりなどなかった。

入りこんだねずみをたしなめ、適当に受け流して追い払う程度にしか考えていなかった……というのに。

これ以上破壊の限りを尽くされるわけにはいかないと、トン、と床を蹴り、引き付けるように彼らへ視線を向けたまま壊された玄関扉をくぐったスクアーロは、あるものを見つ
けてしまったのだ。

捨て置くわけにはいかなくなる――その印。

庭先に立ち、追って出てきた二人の姿を凝視し、ソレを目視確認して――小さく舌打ちを。

「……何が、幕間だぁ」

クッ、と口端を片方だけ引きつらせて、スクアーロは拳を握り締めた。

上下を黒のスーツで固めた彼らの首元をチラつく銀色の影。

陽光を弾き返して煌くそれは、遥か彼方の記憶。

『遠い昨日』に刻まれた忌々しき紋章。

ジャリ、と踏みしめた小石を払いながら、奥歯を噛み締めたスクアーロは瞬間的に息を殺した。

「ボンゴレ、か」

脇を締め、一度開いた指を硬く握りしめ直して、呼吸をひとつ。

腰に携えていた抜き身の刃を左手に括りつけながら、瞼を閉じて……幕開けを思いながらゆっくりと引き上げる。

体勢を低く保ったスクアーロは、挟撃体勢で飛び出してきた彼らへと左右に視線を走らせて顎を引いた。

受け流すことなどできない。

全てが全て、奴の一手であるならば。

望むシナリオ通りに演者を躍らせるための布石であるならば。

もたらされる絶望を打ち砕くために。

「貴様らがツナの守護者なら……ここで、死んでもらうぜぇ!」

終始、眉間に深い皺を刻んだまま、スクアーロは唇を歪ませて拳を引き上げた。



それが――三晩前の出来事だった。























「そと?」

「そう。家出してた間」

母さんの言葉にきょとんと目を見開いた俺を眺めながら、悪戯が成功したとでもいうかのようにクスクスと母さんが微笑む。

誰と、出会ったのか。

そんな訊き方をされたのは初めてだった。

誰も彼も、俺が黒の館にいたと知った途端に酷いことをされたのだろうと決め付けて。

さぞや心に傷を負っただろうと結論付けて。

黒の館の主は、一体どんな非道な輩だったのかと。

みんながみんな、俺を心配するがゆえに、俺を守らんとするがゆえに。

その度、俺が口を噤むのも都合のいいように解釈して。

何も言えなかった。

母さんだって、俺が黒の館にいたことは知っているはず。

そこで出会うのは一人しかいないことだって知ってる。



なのに。



「家出する前のあなたは、何に対しても受身ばかりだったわ」

されるがまま。望まれるがまま。

全てを受け入れて、それが全てだと思い込んでいたほどに。

「なのに、帰ってきたツナは……違った」

今のツナは、とてもとても退屈そう。

「退屈そうなのが、嬉しいってこと?」

「そうね。そうよ。だって、今の生活が自分にとって最良じゃないってわかっているから退屈なんでしょ?」

受動から能動へ。

明らかなる変化は顔つきまで変えちゃった、と母さんはどこか照れくさそうに小首を傾げる。

じわりじわりと浸透する歌みたいな言葉の波。

それは、かけがえのない、真綿のような柔らかい、俺を包み込むみたいな問いかけ。

「ねえ、ツナ。どんな人と出会えたの?」


















荒ぶる呼吸がもどかしい、と忌々しげに唾を吐き捨てたスクアーロは地に落ちた膝を奮い立たせて空を仰いだ。

三日三晩。

休息もままならない強襲を退け続けて三度目の朝。

二人掛かりという利点を生かし、かわるがわるどこからともなく飛び掛ってくる彼らの相手をまともにしていたがため、怪人と自称する己の体力もそれなりに消耗されてしまっ
たか、と自嘲する頃合となってきた。

ありふれた人間よりも体力に優れているとはいえ、スクアーロは完全なる人外とは言い難い。

上下する肩が力なく下降するのも、握り締める指が今にも解けそうになるのも、もはや必然としかいいようのない事実。

本懐を遂げたがために失った『魅了』の力が懐かしく思える程度に、スクアーロの心は磨り減っていた。

「ったく。こんな……ガキ共相手にするくらいで」

何を手間取っているのか、と嘆くには額を伝う汗が邪魔だ。

襲う疲労感に叱咤の声も萎えていく。

こういうところは人と変わらない、などという陰りは胸を塞ぐほど膨らむのに。

ふん、と吐き出した息はずいぶんと冷えていた。

「―――っ」

植え込まれた若木や花壇の向こうから、明らかに増幅した殺気が近付いてくるのを感じて、スクアーロは唇を噛み締める。

おそらく、疲弊しているのはスクアーロだけではない。

彼らの方が平凡な人間に程近いのだから―――ならば。

「最後の一撃、か?」

いいだろう、ならばこちらも迎え撃つまでだ。

身を潜めながら挟み込むように迫る殺気の塊を歓迎するかのように、スクアーロは高々と左腕を掲げた。

白刃が獰猛な鮫の牙の如く、貪欲な輝きを放つ。

己の左右に意識を飛ばして、柔らかく膝を曲げる。

餌を食らうがため、口を開けて待つように。


















「……あのさ、母さん」

「うん?」







はあ、と深く息を吐き出しながら、スクアーロは瞳孔を引き絞った。







「俺が出会ったのは」







狙いを定め、繰り出すべき技に集中するために。







「何かと荒っぽくて、結構自分勝手なところがあって、声も馬鹿みたいにでっかくて」







地面を叩く靴音が二つ、風を切り裂きながら己に突進してくるのを感じ取り。







「照れるとすぐ怒りだすし、重要なこと抜かして勝手に話を終わらせちゃったりするし」







息を止めながら、腕を引き下ろして刃を反す。







「自分勝手で。俺、全然、わからないことばっかりだったんだけど」







草陰から現れた黒のスーツが拳とトンファーを叩きつけてくるモーションを目視した――刹那。







「触れた指が、あったかかったんだ」







己の背に、熱の塊が生まれたのを感じて、スクアーロは目を見開いた。

全ての動きが――手足への伝達が――止まる。







「まっすぐに、俺の目を見つめてくれたんだ」







やがて熱が腹を突き通したことを知り、瞳が自然と下を向いた。







「いて欲しいときに、ずっと傍にいてくれたんだ」







己の携える白刃よりも細身の、青く暗く輝く刃が滴る赤を纏いながら腹から生えている。







「俺の、話、聞いてくれて……俺も、もっと、もっといっぱい、話、聞きたかったのに…」







はっ、と零れ落ちた呼吸は血の臭気を帯びていて。







「俺、スクアーロのこと、まだ、全然、知らないのに…!」







ゆっくりと背後へ滑らせた視線の先には……瞳を冷たく、ギラリと輝かせた黒髪の青年が全身で刀を押し当てるように身を密着させていた。







「もっと、ずっと、一緒に…いられるって、思ってた、のに」

「ツナ」

ボロリと。

瞬きもしていないのに、熱い雫が零れ落ちる。

頬を流れ、顎を伝い、鎖骨を辿って肌を濡らす。

どうして、今更、こんな風に。

何故逃げてしまったのか。

何故恐れてしまったのか。

何故、心臓が、こんなに、こんなに痛んで仕方がないのか。

「ツナ……」

椅子から腰を浮かせた母さんが、手を伸ばして俺の頬を拭う。

触れた指はあたたかい。

けれど……思い起こされるスクアーロの熱さとは違っていて。

それすらも、俺の感傷に響く。

「素敵ね」

「……え?」

名残惜しそうに離れた指先を目で追えば、少し寂しそうな微笑を湛える母さんの表情に行き当たった。

揺れる瞳の奥底で、眩しそうに母さんが俺を見つめていて。







「代わりのない、かけがえのない、『たった一人』に、出会うことが出来たのね」







それはとても得難くて、とてもまれで、とても難しくて、とてもとても、素敵なことよ。

肺が、きゅっとすぼまるように痛む。

細やかな電流が脳天から足先までを駆け抜けて痺れさせた。

やがて、目を細めて笑んでみせた母さんの姿に瞬きを忘れながら、俺はか細く唇を開いて。







「スクアーロ……」



その名が甘い疼きを孕むことに、気付いてしまった。





















「お前に、ツナをやるわけにはいかねーんだ」

引き抜かれた刀が身を引き裂き、焼ききるような熱をもたらしたことにより、スクアーロは膝を崩した。

どこに潜んでいたのか。

侵入者は二人だと思い込んでいた己は冷静さを欠いていたというのか。

渦巻く辟易と苦悶の只中で、スクアーロは自身の身から滴り落ちる赤の水溜りへと手をついた。

「おっと。あんたの再生力がすさまじいってのはわかってるぜ」

「か、はっ!」

「とんでもなく高いとこから飛び降りても、折れた骨が瞬時にくっついちまうくらいすげぇんだってな」

再びの一撃が右肩を貫く。

「それに、とどめをここで刺すわけにもいかないらしくてさ」

勢いよく引き抜いた刃をスクアーロの首筋にピタリと沿わせながら、青年はそっと眉根を寄せた。

「本当に申し訳ないんだけど……あんたは、衆人環視の元で処刑しなきゃ意味ないらいしいから、さ」

ボンゴレの脅威が失われる様を、知らしめるために。

悪いな。

悪びれる様子もなく、サラリと流された謝罪の言葉を意識の遠くに聞きながら、スクアーロは……。

「……ここまでか」

黒と赤を纏う闇の権化の高笑いを思いながら、ゆるやかに瞼を閉ざしていった。