PHANTOM 
for T



母さんと別れ、ふらりふらりと彷徨う歩みは、目的を見出せないまま廊下を漂っていた。

赤い生地に金の刺繍が施された絨毯を踏みしめる足に力はなく、意思の宿りをうかがわせない表情に気付く者は誰一人いない。

使用人は皆持ち場を行きかい、主たる血筋の寝室へと繋がる道筋は静寂が漂っている。

すれ違う人のいない廊下で、傾き色を増す陽を左頬に浴びながら、ツナはゆっくりとまばたきを繰り返していた。

熱に浮かされたような瞳を隠すように、自己の思考へと深く沈んでいく。

斜陽に染められた世界。

居並ぶ大きな窓は絶えず振動し、ガラス一枚隔てた先で風が騒いでいる様を如実に伝えていた。

少しずつ下がりゆく空気の熱も、夜の気配を漂わせ始める。

けれど。

何もかも、移り変わりの変化でさえ、ツナの意識を現実へと吊り上げるには至らなかった。

ただひとつ、浮き上がっては思考を占め、ドロリと溶けて消える名があった。



「……俺は…」

どうすればよかったのだろう、と呟くことすら罪のようで。

苛まれる心の震えに唇が戦慄いた。

眼球が、痺れるように熱い。

指先は温度を失っているのに、ドクドクと血の廻りをあからさまに示し伝える。

後悔が、何になるというのだろう。

反省が、自責が、何になるというのだろう。

あの時、それでもと、逃げ出さずに、離れていくスクアーロの指を掴んでいれば、何かが変わっていたのだろうか。

ifを引き合いに、逃げることには慣れている。

そして、自分を嫌悪することも。

どんなに過去を振り返っても、現実はひとつだ。

俺の選択は成された事実しか残らず、歩み立つ道筋に見出す今が全て。

わかっている。

理解も、納得もしている。

けれど……。

「スクアーロ」

浮かんでは消える名がある。

繋いだ手も、引き寄せられた腕も、俺が振り払ったというのに。

決定的な別離を突きつけたのは彼でも、それをさせたのは俺だったのだから。

俺は、自分自身が嫌いだ。

なんのためにここにいて、なんのために生きているのか、考えてもわからないことを考えようともしていない自分自身を嫌悪していた。

惰性で繋がれる生に絶望すらせず、無感動を餌にして、悲劇の主人公ぶろうとする自分自身が嫌いだった。

暖かい箱庭に守られていながら、それを拒もうする浅ましさが嫌いだった。

なんだかんだと理由をつけて、己を殺す勇気も力もない自分自身に嫌気がさしていた。

身体であれ、心であれ。

俺は何かを失ってしまうことを恐れ、それでいて与えられるばかりの世界を呪って。

ただの、子供でしかなくて。

だから。

せめて。

一度だけでも、こんな俺でも、自分の意思で踏み出せると思いたかったのだ。

結局俺は、踏み出してすら、いなかったのだけれど。

自分のために自分で選び取ったはずの全てを後悔するのなら、それはただの茶番でしかないじゃないか。

ああ、けれど。

どんなにそれが愚かで、身勝手なことだとわかっていても。

「……スクアーロ、俺は…」

何度でも何度でも、湧き上がる彼の名があることに、気付いてしまったのだ。



階段へと繋がる壁際で、ふらりとよろめいた足が揃って止まる。

上体は傾ぎ、吸い寄せられるように壁へともたれかかった。

両掌で顔を覆えば、息苦しさに歪む眉間も唇も、重々しく閉ざされた瞳も隠すことが出来る。

たったひとつの彼の名。

それを想う心の揺らぎを、なんと呼ぶのかは知らない。

ただわかることは、俺は現状に満足していない、ということだった。

後悔は、無駄になんてならない。

無駄に、しなければいいのかもしれない。

「きっと、拒まれる。会いに行っても、手を伸ばしても」

それでも、愚かな俺は繰り返そうとするのだろう。

挫けそうな己を叱咤して、彼の部屋へと走ったように。

「……繰り返したっていい。少しでも、俺が、以前の俺と違うなら」

ぽつりと吐き出された言葉が再び俺の中に一本の芯を生み出した。

もう一度、俺から彼へと会いに行こう。

そしてまた逃げ出すのなら、それでもいい。

彼が許さないなら、俺が食い下がろう。

膝をついてでも、追い縋ればいいのだから。

会わなければ、と。会いたいと。

言い聞かせるように繰り返す。

「スクアーロ」

叫ぶ心が痛むなら。

「もう一度、話して、手を」

あの寂しさを掻い摘む指に触れたい。

ぎゅっと、重ね合わせた拳が震える。

……どんなに決意したとしても、やはり拒絶に対して身が竦むのを止めることはできない。

思い起こされる、彼の部屋の奥の奥。

大きな額に埋め込まれた肖像画。

俺とよく似た、俺ではない彼女。

たった一人、あの絵を見上げながらスクアーロは何を想っていたのだろう。

俺があの館に連れ去られたのは、やはり彼女に似ていたからなのだろうか。

公園での、告白も?

俺を通して、いや、重ねて、彼女を見ていたのかもしれない。

「う……」

ズクリ、と、肋骨の中が痛む。

「うー……」

物理的な痛みじゃない。だって、傷なんてつくはずないんだから。

ずるずると壁伝いに身体を滑らせ、膝をついて床を見つめる視界はゆらゆらと曇っていた。

ぼた、ぼた、とそっけない音が絨毯に染みをつくっているのを知らしめる。

「なんで……こんなに……」

湧き上がる熱が俺をどんどんと弱くする。

会いに行こうと決めた身体の進行を阻む。

息苦しさに喘ごうにも、漏れ出る情けない嗚咽を誰かに拾われてしまうことを恐れて。

渦巻く彼の名とそれに伴う熱は、なんという感情なのだろう。

悔しさだろうか、寂しさだろうか。

彼の想う彼女には決してなれないことへのプライドなのだろうか。

会いたい。でも会いたくない。

これ以上傷つくことを何故望まなければいけないのか。

問いかける声が消えることなどなくて。

それでも。

「スクアーロっ」

助けを望む言葉も、疑問に咽ぶ声も、全部、彼の名へと昇華されていくのだ。







「おい山本!」

「んー?」

しゃがみこんだ壁際の向こう、階段を上がってくる足音と共に突如耳へと飛び込んできた声音に俺の両肩は跳ね上がった。

聞き慣れたはずの、いつも傍にいてくれる友人の声と、名前。

「どうした獄寺」

「お前、なんで口止めなんてしてんだよ」

一際高く鳴り響いた靴音を最後に、二人の歩みが止まったことを容易に悟る。

壁一枚隔てた先、一歩俺が身をずらせば面と向かい合えるほどの距離で。

「十代目だけにお知らせしないっつーのは、なんか違うんじゃねえのか」

ひゅ、と思わず息を飲む。

俺だけが、知らない。その言葉の意味に、意図に、目を見開いて。

微かな逡巡が俺の膝を震わせた。

予想外の事態は、混乱を招くばかりだ。

知らせない、ということは知られたくないということだ。

ここにいてもいいのだろうか。

疑問は答えを招きはせず、俺は一段と身を硬くして縮こまるだけに止まった。

「だってさ、獄寺」

「ああ?」

いかにも不機嫌そうな相槌にぐ、と息を殺す。

「何があったか知らねえし、ツナにとってよくないことだったのか、そうじゃないのかもわかんねーし……でも、ツナが一ヶ月近くも一緒に暮らしてた奴だってのは事実だろ?」

誰のことを指しているのか一瞬迷ったけれど、そんなのたった一人しかいないって、一呼吸する間に結論を出せるほど簡単なことだ。

ふ、と疲れたような溜息を吐く音が俺の意識を高めていく。

「ツナが、誰より平穏を望んでるってのはお前もわかってるよな」

「ああ。そのために俺がいるんだからな」

「だろ?だから」

こつ、と再び刻まれ始めたリズムに彼らの歩みが再び階上へと向けられたことを悟る。

同時に俺は一際、す、と息を殺して。

紡がれ続ける彼らの会話に耳を傾けて。



そして。



激しく、後悔した。














「街の脅威を、くだらない御伽噺を根絶やすために、怪人とやらを公開処刑する、なんて言ったら、少なからず悲しい顔させちまいそうじゃね?」
















「だからって、十代目の前で嘘をつくってのは」

「それも今夜で終わりだろ。気ぃ抜かずにいこうぜ獄寺」

「っ…!てめえに言われたかねえよ!!」







遠ざかる足音にも、怒声を響かせる獄寺くんにも、はは、と軽く笑ってあしらう山本にも意識を向けることなどなく。

俺は叫びだしそうになる口を両手で必死に押さえ込んでいた。

溢れていた涙は、いつの間にか枯れていた。