PHANTOM for T



荒くなる息を隠そうともせず、俺は石畳を駆けていた。

しばし忘れていた外気の冷たさが掌を貫くも、ぐっと握りこんでやりすごす。

手袋を探している余裕は、なかった。





山本と獄寺くんの気配が完全に感じられなくなるまで動けなかった足を叱咤して、フラリと揺らぐ上体を壁から離し、俺はひとつ息を吸った。

ありとあらゆる言葉が渦巻く。そして、真っ白になる。

生まれては消える『何か』が何かということさえわからないまま、震える足は段々と回転数を上げていった。

やり場のない手が無様にも宙を掻く。

今にも叫びだしそうになる意識をなんとか抑え込みながら自室へと駆け込んだ俺は、一目散に手を伸ばしたクローゼットから上着を取り出し、袖を通しながら窓を開けていた。

コート掛けに引っかかっていた誰のものとも知れない帽子を引っ掴み、目深にかぶればおざなりではあるが変装に程近い。

口から飛び出すのではないかと思われる鼓動とは真逆に、意識はすっと静まっていた。

普段使われない思考が音を立ててフル回転しているように。

いかにして、人目に触れず街へと向かうか。

屋敷の者はおろか、『守護者』という名の友人達に見つかれば一発でアウトだ。

連れ戻されるだけではきっと済まない。

俺には隠しておきたいのだろう『今夜の予定』を遂行する保険として、勘付いていないと演技したとしても軟禁くらいはしてくるだろうから。

ごく自然に、それこそ、今まで俺を箱庭に閉じ込めていたのと同じように。

ぐっと唇を引き結び、駆け上がる衝動の熱と恐れの怖気がない交ぜになる感覚を体内に燻らせる。

スクアーロの処刑。

盗み聞いた彼らの言葉の意味を俺が捉え間違っていないのだとすれば、それは街をあげて公に執り行われるのだろう。

どこで、とは言わなかったが、町に降りれば自ずと情報が飛び込んでくるに違いない。

山本は、悲しい顔をすると言った。

俺の平穏のためにと語った。

その判断は、合っているようで間違っている。









窓枠に手を掛け身を乗り出せば、右横には配管が上へ下へと伸びている様が見て取れた。

高さは……見ないことにしよう。

やってやれないことなんてない。

スクアーロの館の地下で死にそうな目にあったことを思えばこの程度どうということもないはず。

そう己に言い聞かせながら力いっぱい腕を伸ばし、俺はトンと窓枠を蹴った。











町は異様な雰囲気に包まれている。

活気、とは少し違う、熱気、というにはいささか冷ややかな、沸き立ちながらもおどろおどろしい不思議な空気がとぐろを巻くように渦巻いていた。

絶え間なく動かしていた足からゆるゆると力を抜きながら、俺はそっと辺りを見回す。

陽が大分傾くにつれ、外を歩く人の数が増えてきているのだ。

街灯には火が灯り、すれ違う人の顔に影を落とす。

まるで表情を隠すように。

すれ違う人々は皆一様に同じ方向へと、緩く上向きに続く坂を上っていく。

街灯、壁、掲示板、ありとあらゆる所に貼られた紙を指差しながら。



『Vongolaの名のもとに今宵18時00分より旧聖堂にて古き御伽を断罪す。漆黒の館に怯える者、友情と親愛を示す我らが民は皆見届け人となるよう集われたし』

ご丁寧にも箔押しでボンゴレの紋章が印字された紙は街中のいたる所に貼り付けられていた。

まるで、あますところなく人々に知らしめると豪語しているようだ。

言外に、集まらない者は裏切り者として排除するというニュアンスを含ませる、脅し文句。

支配権の主張は子供の俺ですら容易く見破ることができる。否、わざと見せ付けているのだ。

それだけの力を、ボンゴレは有していた。俺の、知らない、ところで。

これがボンゴレのやり方だった。

人々は――それに疑問を抱いてはいない。

時に友であり、時に家族であり、そして、正しく王である。

町ひとつを支配する、ボンゴレという名のマフィアの、俺が知らなかった正しい姿。

一度ぐっと力いっぱい瞼を閉じた俺は、呼吸に胸を上下させて、再び両足に指令を下す。

人波に紛れ、物影に潜みながら、一歩一歩確かに坂を上っていく。

深緑の林に覆われた、古くも脆い、捨てられたはずの聖堂を目指して。









山本の判断は、間違っている。

彼の処刑、彼が殺されるということを知って、俺がしたのは『悲しい顔』なんかじゃない。

腹の奥底が煮えるような、マグマを抱く感覚。

熱い熱い何かがグルグルと体内の深くで滞るような。

言葉では表せないような、熱が、身を、意識を、理性を、苛むような、そんな――。

今にも爆発しそうな熱を抱えて、ギッと進むべき道を見据える。

こんな事態になって、やっと俺は自分の望みを見出した。

俺は、スクアーロに、『何か』を伝えなければならない。と。



急速に闇へと沈む街並みを抜け、俺はそっと下唇を噛んでいた。