PHANTOM for T
大きく開かれた入り口は両開きの鉄扉だった。
所々傷が入り錆に塗れたままの扉は久しく開かれたのか、微かな湿っぽい臭いをはらんでいる。
遠目からでも古ぼけて見えた聖堂は、儘古めかしく、しかし頑強な柱が幾本も突き立ち、揺らぐことなく支えていた。
薄汚れ、隅には埃も見える建造物。
遥かな時を越え、また時を封じ込めてきたかのような、既視感さえ覚えるそれ。
ゾロゾロと数多の足並みが吸い込まれていく。
薄暗い聖堂内には通常あるはずの椅子や机が取り払われていた。
可能な限り多くの人を呼び込もうというのだろう。
薄暗い空間に足を踏み入れながら、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
ぞくりと這い上がってくるような怖気を振り切るように。
漏れる吐息に震えが混じっている、のは、気のせいだ。
人、人、人の波に押されて脳が興奮しているだけなのだ、と静かに繰り返しながら。
正面には原色を溶け込ませたステンドグラスが天から地へと伸びていた。
不気味なほどに鮮やかなそれは傾く陽の残光を取り込んでキラキラと光を地面に落としている、ようだ。
視界を埋め尽くす人の群れによって、あつらえられた舞台がどのような様相なのかは視界の端をよぎる小さなヒントで想像するしかない。
小さな町といえど、呼び込まれた群衆の人数は想像以上に嵩を増して波となり壁となり歩みを阻害する。
残照を取り込み赤く染まる聖堂をゆっくりゆっくり進みながら、吐き気を伴う鼓動を抑え込もうと胸に手を当てる。
無意識に指先へと込められた力は衣服越しに微かな痛みを肌へ伝えた。
進むたび。
息を吸うたび。
見開いた瞳がじわりと潤む感覚を波紋のように馴染ませて。
時間の経過も忘れた俺は徐々に足を止める人々の間を縫いながら、なんとか前へと進み出る。
何を考えて前へいこうというのか。
何を望んで進み出るのか。
もはや本能に縋りつくような意識の水底で、俺は瞬きすらも惜しむように眼前を見据えようと目を凝らしていた。
「……何を?」
そんなもの、たったひとつ、だろう。
自問自答に零れた吐息を拾い上げながら、そっと顔を上げる。
視界を、頭を、脳裏を、胸を、体の中全てを。
満たしたのは鮮やかに赤みを帯びた三原色の光と簡素なまでの十字だった。
カシ、と乾いた音が頭の中で響く。
物理的ではない、現実的ではない、心というものが体内に存在するとすれば、そこ。
そこが、唐突にひび割れたような感覚を――。
「ここに、あるのが、諸君が恐れる古き昔話の幻想の根源だ」
カツン、とわざとらしく鳴らされた踵にハッと意識を掬い上げられる。
黒のスーツの上下。
目元を遮るが如く目深にかぶられた帽子から覗く眼光。
肩幅に開いた足を微かに片足だけ引き、斜に構えるのは見慣れた家庭教師の姿だった。
隠すことなく常日頃から「凄腕のヒットマンだ」と豪語していた通り、彼が組織の上層に属していることは想像に易い。
祭壇の前に設けられた、真新しい張り出し舞台は古ぼけた聖堂から幾分浮いている。
その壇上に、観衆を見下ろすべく、見慣れたメンツが並び立っていた。
帯刀した山本。後ろ手に手を組んだまま視線を飛ばす獄寺君。
事も無げに明後日を向いた雲雀さんもかろうじて端の方で佇んでおり、その対称が如く反対側には不気味ににこやかな骸が。
辺りをそっと伺ってみれば、クロームや了平、普段は『家』の中にいない黒服の面々までもが入り口や壁際に控えて壇上と観衆を眺めている。
頭上を覆う帽子を確かめながら、彼らに悟られないよう背を丸めた時だった。
カシ、と再びひび割れが。
思わず、何の確証もなく痛んだように思えた胸を掴んだ。
「これは今年で丁度百年、齢を重ねることもなく生き続けている。その源であるところが何かは皆も知るまい」
言葉を発する彼が体を微かに引いたことで全ての注目が、視線が、高揚が、対象をずらした。
小さな惑いが波のように、前から後ろへと流れていく。
ぶわりと。
ありもしない風を浴びたような気さえ、して。
けれど俺は、微動だにせず――することなどできず、零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「並の食物も口にはするが、これにとってそれは糧とならない」
うな垂れた銀色。
流れた光を反射するその肌触りが滑らかなことを知っているのは、きっと俺だけ。
赤みを帯びた光に上から照らされる姿は、けれど俺の目に眩しく白く輝くようで。
所どころ、銀糸に纏わりこびりつく黒に呼吸を止める。
両掌。
両足首。
腹部。
肩。
ぞっとするほど鈍い色を放つ大きな杭が、彼を十字に縫いとめていた。
「何故ならば、これの主食は人肉であるからだ」
もはや、語る声は耳に届かなかった。
ぐったりと頭を下げているから、顔が見えない。表情が読み取れない。
意識はあるのか、ないのか。
ぴくりとも動かない指先に俺は薄い呼吸を止めかけては引き戻し、引き戻しては止めかける。
いつ流れたのかわからないほど、衣服や肌に付着した血は酸素に触れて黒く変化しきっていた。
「脅威の長寿。そして回復力。ここまでして磔にしているものの、傷は杭を挟んで塞がりつつある」
血も今は滴っていない。
生きている。
どんなに傷を、見ているだけで己が身を抱きそうになるほどの悲惨な姿を晒していようとも。
けれど、まったく感じられない生気に俺はただひたすら、叫び出しそうな声すらも見失って。
開ききった唇はカラカラに乾いていた。
「古より続く血脈。怪物の系譜。今日に至るまでこれは黒の館と共に封じられてきたが、とうとう姿を現してしまった」
聞き流していた彼の言葉が微かに俺の中へと引っかかりをみせた。
封じられてきた?
姿を、現した?
「これが力を取り戻した以上、もはや昔語りとして見過ごすわけにもいかない」
俺は、今でもちゃんと覚えている。
混乱の最中に突き落とされていても。
彼は、確かに言っていた。
黒の館が、街に姿を晒してしまったその時に。
『俺の力が途絶えたから』だ、と。
「ならば、諸君の安寧を護るべく、我らボンゴレが取る手段はひとつ」
違う。
何かが違う。
おかしい。
頭がグラグラと揺さぶられているようだ。
湧き上がる腹の底からの熱が、激情だということはわかりきっていた。
どこからか湧き上がる賛同の声。
沸き立つような、煽るような、ざわめきに似た歓声。
後ろから、前から、右から左から。
渦巻くように、巻き込むように。
轟くざわめきは強かに空気を熱する。
「力を示そう。不穏の元、諸悪の根源。悪しき怪物に正義の鉄槌を!」
「鉄槌を!」
「正しく断罪を!」
「断罪を!」
「断罪を!!」
「断罪を!!!」
湧き上がる周囲に押されながら、俺は首を振っていた。
違う。全てではない。これが、真実などでは。
彼らは、ボンゴレは、誘導しているだけだ。
人心を手玉にとって、自分たちの都合のいいように、彼をも利用しようとしている。
震える指先が、俺と彼とを遮る人の壁に手を伸ばす。
控えていた山本が腰に据えていた刀の柄に手をかけた。
スラリと引き抜かれるそれは青みを帯びて刀身を輝かせている。
仰々しく弧を描いたそれにも群集は歓声を増した。
あたかも、下される罰が栄光の始まりだと謳うかのように。
「ぁぁ…」
違う!違う!!
彼は何もしていないのに。
殺されるいわれなんて、ないのに。
見せしめ――よぎる単語に背筋が震えた。
手先が血の気を失って冷える。
反して、腹の底は熱で充満しきっていた。
衝動が脳天から足先までを突き抜ける。
踏出した足を強引に前へ。
怪訝そうに眉を寄せる人を掻き分けて、掻き分けて、未だ遠い彼へと。
揉まれた際に帽子が落ちてしまったが、そんなものに構う余裕はすでにない。
「断罪を!!」
山本がふう、と息をひとつ零したのが遠目でも見てとれた。
彼が、渾身の一刀を繰り出す前の合図だと、いつだか手合わせしたという獄寺君が悔しげに語っていた様を思い出す。
いやだ。
こんな、終わりなんて。
伝えなければいけない。
告げなければいけない言葉がある。
たとえどんなに拒絶されても。
間違いを犯していたのだとしても。
見失っていた、名付けられなかった感情に、唐突に生まれた言葉がある。
それを。
彼に。
『俺の』
呼吸を忘れて、圧される痛みを掻き分けて、声にならない叫びを上げて、十字を目指す俺の手はただただ空を掻いて伸ばされる。
体内を巡る血の中に、彼の言葉が響くのに意識を揺らがされながら。
声が。
声が、聞こえる。
『俺の、百年の孤独を、埋めてくれ』
彼の、最初で最期の懇願が。
「スクアーロ!」
歓声にかき消される中、俺は喉を振り絞って叫んでいた。
人だった、人。
その手が暖かいことを、俺は知っている。
触れる指先が躊躇いを秘めていることも。
作り物みたいな銀色に、繊細な息遣いを宿していることも。
瞳が、誰より、強い光を帯びてまっすぐに見つめてくることも。
背に回った掌が、微かに震えていたことも。
山本が音もなく刀を頭上に掲げる。
白刃は落ちきる陽の最期の一筋を浴びて、赤く、白く、青く。
空を、切る。
刹那。
ふと、彼が顔を、上げた。
まっすぐに、俺を、見つけたみたいに。
ほころんだ唇は一瞬だった。
一瞬のような、永遠だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ブツン。
頭の後ろで、何かが弾ける音がした。