黒。
闇。
真正の、黒。
ぽつん、と立たされた黒塗りの中で、俺は呆然と前を見据えていた。
唇は叫びの形に開かれたまま。
瞳は何一つ逃さぬように見開かれたまま。
まばたきも呼吸も忘れた時の中で、俺は立ち尽くしていた。
「ふん。だから言っただろう」
前触れもなく、二対の赤が現れる。
赤の両目。
黒の髪。
纏う衣服も全身黒の男は、派手な玉座に腰掛けたまま凶悪な瞳で薄っすらと笑う。
「繰り返すだけだ。何度でも」
組んだ足を入れ替えながら、ゆったりと顎をしゃくる。
俺はそれすらも、微動だにせず見つめていた。
なんとなく、わかる。
いや、はっきりとわかる。
この男こそが、いつぞやの、黒の館の地下で、俺の首を絞めた闇の塊だ。
「お前達は何度でも、奪い奪われ続けるばかり」
滑稽の限りだな、と嘲う様は微かな嫌悪を呼び起こす。
「だがしかし、俺はてめえに選択の余地を与えてやる」
感謝しろよ。
薄っぺらな言葉の端々に見下しの色を含ませながら、男はうっそりと瞳を細めた。
見抜くような、見透かすような、視線。
「俺は過去、このドカスに力を与えた」
くい、と足先で男が自身の隣を示す。
そこに、再び唐突に、ひとつの肢体が現れた。
息を、飲む。
やっと得られた俺の意識的な動き。
乾いた瞳にじわりと張る涙の膜。
うつ伏せに横たわる、銀色。
「スク、アーロ……!」
「待て」
冷たい制止が踏み出した足を止めさせる。
男の言葉はこの黒の中では絶対なのか。
意思に伴わない体が不自然な体勢で空に縫いとめられていた。
伸ばした指先が、震える。
「なに……」
行かせてほしい。一刻も早く。
触れさせてほしい。先に見た現実が、現実ではないのだと否定できるように。
最期に見た血しぶきが、先走った幻だったのだと。
吐息の震える喉から声を振り絞り、俺は黒の男を睨みつけた。
殺されかけたというのに、恐怖はやはり、沸かない。
何より煮えたぎる嫌悪感が、常にない強気を生み出している。
「慌てるな。今この場で、お前がドカスに触れることは許されない」
「っ……なんでっ」
「盟約だからだ」
大仰に足を挙げ、腰を上げ、男がその長身を闇の中に浮かび上がらせる。
「かつて、こいつがとある望みを果たすために俺と盟約を交わした。成就のため、俺が人にはない力を与え、人ならざる存在へと貶めた」
明確な床は見えない。
先ほど踏み出した俺の足も、微音すら伴わなかったのに。
カツン、と。
硬質な靴音を発しながら、男は俺の方へと歩みを差し向ける。
「その代償として……望みを果たした瞬間、これは力を失った」
簡単な図式だろう。
力と願いの均衡関係。
掛値の生み出す当然の引き算。
スクアーロの、力。
町ひとつを覆い隠すほどの、『魅了』の力。
「それが、与えた『力』の所在。そして」
カツン、カツン、と確実に近付く男は俺の頭一つ分、スクアーロとほぼ同じほどの長身を誇っていた。
「死後は俺の下僕として、世界の輪廻を外れ、永劫地獄の奥底に繋がれる」
生まれ変わることもなく。
魂が救われることもなく。
まして、人として在った事実すら根こそぎ奪われて。
未来永劫、苦しみと嘆きのどん底で。
家畜以下のモノとして、闇の中。
一方的に突きつけられる言葉の意味を、ゆっくりと租借していきながら、俺は息を飲み込んだ。
つまり、は。
スクアーロは。
「死んでも救われることはない。孤独と、苦痛と、苦悶の中で喘ぎ続けるだけ。それが、代償、だ」
安らぎのない、救いのない。
スクアーロを貶めるための言葉の羅列に、強くも重い衝撃に脳が、心臓が、貫かれていた。
尚一層、スクアーロの元に駆け寄ろうとする心が、足を動かそうと躍起になる。
動け。
動け!
動けよ!
見える場所にいるのに。
きっと、もう、今しかチャンスはないのに。
いやだ。このまま会えなくなるなんて。
このまま引き離されるなんて。
死んだら、天国でも地獄でも、彼に会えるかもしれない――そんな夢すら奪い去る絶望を前に、屈するなんて嫌だ。
失いたくない。
俺は、まだ。
まだ――!
「さあ。選択の時間だ」
カツン。
一際大きな音を最期に、男は俺の視界を遮った。
目の前に現れる赤の瞳。
血を流し込んだような、禍々しい輝き。
「身代わりを、許そう」
薄い唇が弧を描く。
「お前が俺と新たな盟約を交わすなら、奴の代償はお前へと譲渡される。ドカスは人の輪廻へと戻り、魂は濯がれ、生まれ変わることもある」
黒の両手が広げられる。
「お前が望みを掲げ、未完成な永遠を生きるなら、奴ではない奴と些細な邂逅もあるかもしれない」
パチン、と指が、ひとつ、鳴った。
「お前がその権利を放棄するならば、お前はこのまま現実へと帰り、君臨するボンゴレの元、人の輪廻を巡るだろう。奴のいない、平穏を」
平穏。
スクアーロの欠けた、スクアーロを殺した、彼の魂を貶める決定打を与えた、ボンゴレの支配する世界が?
ぬるま湯のような日常が?
何一つ変わらない毎日が?
スクアーロという、色を、失った、世界が?
平穏?
「さあ」
震える吐息が細く落ちる。
熱はやがて静かに下がり、波となって波紋を広げる。
身体中に。
指先、爪の先まで。
スクアーロ。
ねえ、スクアーロ。
俺は気付いてしまっていた。
焦がれてやまない、激情を。
伸ばしてしまう、指先の意味を。
「選べ」
ぱちりとまばたいた拍子に、涙が輪郭をなぞっていた。
「俺は、まだ、スクアーロに言えてない」
「俺も、あなたが好きだって」
がさついた闇が、高笑いを上げた。