PHANTOM 
for T



ふわふわと、やけに軽く暖かい何かに覆われていて……とても気持ちいい。

あまりの居心地の良さに、瞼を上げることが億劫に感じてしまう。

このまま、あと一時間はまどろんでいたいと思えるほど。

ほどよく沈み、首の形に沿う枕も弾力が丁度いいことだし。

寝坊したら母さんにまた呆れられてしまうかもしれないけれど……いいじゃないか。

どうせ、毎日何をするでもなく安穏と過ごしているだけなのだから。

雇われた家庭教師の訪問までは、まだ時間があるはずだし。

そこまで考えて、肩までかけられているそのふわふわを頭の上まで引き寄せて、俺は身体を丸めた。

日差しが、眩しい。

朝―――。

「っ!!」

思わず、ガバリと上体を起こす。

朝。

ベッド。

寝室。

――いつの間に。

「…俺……ここ、は……」

連れ戻されたのだろうか、と脳裏を駆け巡った予想は周囲を見回す行為の後に脆くも崩れ去った。

見慣れた、乱雑な自室ではない。

読み潰した漫画たちも、部屋の脇に重ねられた教科書類も、ベッドの横にこっそり隠してあるお菓子も見当たらないのだ。

真っ赤な絨毯が敷き詰められ、ガラス製の花瓶が手持ち無沙汰に鎮座するテーブルは黒。

それを囲うように配されたソファは同色の革張りで、冷たさを多分に醸している。

壁際に埋め込まれたような両開きの扉はクローゼットだろうか。

花と草木を模した彫りが目に優しく写る。

そして……。

全体的に黒で纏められた室内で、一際目についたのが――金色のドアノブだった。

ベッド横の大きな窓から注ぐ陽光によってチカチカと瞬く金色は、どこか異色。

まるで――母さんがドレッサーの片隅に大切に置いている、宝石箱の鍵のよう。

物心つき始めた折、あのキラキラが欲しくて何度も箱から外そうと試みた、眩い輝き。

その度母さんは笑いながら見つめてくれていたっけか…。

ふ、と浮かんだ母さんの顔が、やけに懐かしく感じてしまう。

家を飛び出してからそんなに時間が経ったわけではないのに。

どうして――。









「目覚めは悪くなさそうだな」









扉の方を見つめていた俺の背にかけられた声に、おのずと背筋が震えた。

動きは鈍いし、運動神経は悪いし、普段から生傷がたえない子供だったけれど、人の気配には敏感なはずなのに。

嫌な予感とか、何かの気配を察するということに関しては周囲の人間からも一目おかれていたのに。

まったく、感じ取れなかった。

得体の知れなさに呼吸を詰まらせながらも、反射的に背後を振り返る。

立っていたのは、見慣れぬ黒衣の男だった。

ワイシャツのボタンをひとつふたつ外し、真っ黒な上着を羽織った男は長い白銀の髪を掻き上げて、俺を見つめている。

鋭い目つきに心臓が大きく跳ねる。

怖い。

誰。





何かを――何を言おうとしたのかはわからないけれど、唇をそっと開いた、瞬間。




ドン、と。

俺を囲いこむように両手を俺の顔の真横へ。

追い詰めるように壁に手をついた男はずいっと顔を寄せて俺をマジマジと見つめた。

吐き出すはずだった息が、飲み込まれる。

上がる肩に合わせて、脇を閉めた腕がぶるりと寒気を帯びた。

「――ツナ。お前は今日から、ここに住めぇ」

「え………」

鼻先が触れそうなほど詰められた距離のまま、告げられた言葉の意味がうまく処理できない。

間近の瞳は髪よりも深い銀色で、瞳孔の奥底に吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。

反論を許さない、というよりは……反論させる気を根こそぎ削ぐような、声音。

「…っと、悪ぃ。あんまりやると同じことの繰り返しになるな」

はっと何かに気付いたように、男は慌てて顔と顔の距離を開いた。

月光よりも青白い眼差しが、瞬時に閉ざされる。

しかし間を置かず伏せられていた瞼は、ふ、と再び開かれた。

――数瞬前の深さとは違う、幾分白みを増した銀色を有して。

「あ……なん、で」

「あ?ああ…強制力が強すぎたらしくてなぁ…三日三晩眠らせちまったからよぉ…悪かった」

言いながらそっと身体を離した男はふいっと顔自体を逸らしてしまう。

バツが悪そうに小さく頬を掻き、天井の角へ視線を揺らしながら。

強制力?

三日三晩……眠らせた!?

「お、俺、三日も寝てた、って、こと…!?」

「お前が単純すぎる、つうのも悪いんだぜぇ」

もうちょっと人を疑うっつうことを覚えておけよぉ、と溜息をつかれてしまった。

……ちょっとまって。

俺、悪くないよね?

「どういう……あ、あんた……何者!?」

「やっとそこか。まあいい。俺はスクアーロ。ここは黒の館。お前は今日から俺に囚われた状態でここで暮らす。説明は以上だぁ」

「――え、ええ!?説明、って…え?黒の、館って――」

まくし立てられた言葉が、ただひたすらに右から入って左に抜けていく。

所々の単語がひっかかるような感覚しか残らない。

「町のやつらが勝手にそう呼んでるんだろぉ。観たまんまじゃねえか。センスねえよなぁ!」

ばっと髪を振り乱して俺の方へ視線を戻した男――スクアーロ、とやらはベッドの端に腰掛けながら悠々と足を組んだ。

違う。そうじゃない。そういう意味で訊いたんじゃない。

「黒って、ことは……黒……高台の、館?」

「それ以外にどこが…………そうか。お前、本当に何も知らされてねえんだな…」

そっと伏せられた瞼が意味深に震える。

落胆…というほどではないけれど、少し寂しそうに投げ出された視線。

ゆらゆらと、水面に映りこむ月の如く銀色が傾く。

その揺らぎに、何故か心臓が、腑が一瞬熱く燃えるような温度を帯びた。

漏れ出る吐息が、やけに熱い。

「ここが、あの、館……ってことは、貴方は」

「…ふん」

やっと恐怖が帰ってきたかぁ?と唇の右端だけを吊り上げたスクアーロは吐き棄てるように鼻で嗤った。

瞬く間に、懐かしい歌が蘇る。

先日何気なく思い出したばかりの記憶。

なんて都合よく……と片隅で己の思考を疑いながらも、意識は眼前で排他的に微笑む彼へと集中していた。



おじいちゃんの、語りの中に住まう『彼』。

孤独を纏う怪人。

人を攫い、食らう怪物。

……彼、が?

「俺を――食べる、ために?」

「はぁ?……そうだな。喰うんなら、もう少し色気が出てからだなぁ」

くっくっと忍び笑いを落とす彼を前に、俺は。

俺は……寓話の中でしか認識していなかった存在を前に恐怖を感じていた、けれど。







「だがその前に……俺の百年の孤独を、埋めてくれ」







身体が強張って、上手く逃げられそうもないと細く息を吐き落とす傍らで。



ゆっくりと、のしかかってくる重み。

押しつぶされるほどではないけれど、背筋を伸ばして構えなければ倒れこんでしまうほどのぬくもり。

左肩に寄せられた額を受け止めて。

幼子のように。

捨てられた子犬のように。

懐かしむよう、縋るように。

意外なほど暖かい掌が所在なさげに背を這う。



何故だろう。

何故、俺は。



よぎる自問を聞き流しながら。



擦り寄る大きな体躯を受け入れるが如く、そっと彼の背に腕を回したのだった。