PHANTOM 
for T



(しびれてきた…)

左右に開いて折った膝の先、指の付け根辺りから痺れが這い上がってきて、ふくらはぎの感覚はすっかり失われてしまった。

俺にしがみついたまま動かない男、スクアーロの力が緩まない以上、動けないわけなのだが…。

(時間、どのくらい経ったんだろ)

眼前の彼から漂うコロンの香りが気に留まらなくなるほど、二人、ベッドの上で座り込んでいる。

生活するに足る家具の一式が揃った部屋…だと思っていたのに。

必需品として欠けているものがひとつある、と気付いたのは彼が俺をしばらく離しそうにないと気付いた直後だった。

秒針が空気を揺らさない。

静寂を打ち破る聞きなれた振動音がない。



見渡す限り、ではあるが……そう、この部屋には時計がなかった。

すぐ傍の窓辺からそそぐ陽の色と輝きの度合いでしか時間の経過が計れない。

(いつまでこうしてればいいんだろ)

俺の背中に回った手の弾力が吸い付くように心地よくて…微動すら許されない気分になる。

離してくれと主張することも、遠慮が先行してできずにいるのだ。

孤独を埋めてくれと彼は言った。

関係ない、知ったことかと突き放すことも出来たはずだけど……自然ととってしまった行動によってもうそのカードをきることは出来ない。

どうしたものか…。

「っおわ!?」

「―――食事は朝が八時、昼は十二時、夜は十九時。必ず食堂に来い」

ふう、とひとつ息を吐き出した瞬間、べりっと剥がすように俺の両肩を掴んで距離を取ったスクアーロは俺の顔を見ず、一気にまくし立てていく。

ふいの衝撃に俺の両手は宙に浮いたまま。

「敷地内では好きにしていい。が、門の外には出るなぁ。周囲の森には野犬も狼もうろついてる。奴らにとってはお前なんざ歩く肉塊だぜぇ」

「や、やっぱり野犬はいるんだ!」

ビクっと竦んだ肩に気付いたのか、スクアーロがそっぽを向いていた顔を俺へと引き戻した。

若干、目尻が赤く色づいているように思えるのは気のせいだろうか。

「館を囲む塀の中までは入り込まない。庭には出ても問題ねえから安心しろ」

「あ、安心って……この中では、好きにして、いい、んです、か?」

「ああ。来たければ俺の寝室にも来ればいい。もれなく食っちまうがなぁ」

おどけるように首を小さく傾げながらニヤリと笑ったスクアーロは、右手で顔に掛かった髪を耳の後ろに追いやりながらベッドに左手をついた。

そのまま、音のない振動を残して腰を浮かせる。

ギシリとも鳴らないなんて……このベッドは新しいのだろうか。

館はずっと昔からあるのに。

「何か欲しいものがあったら……俺を呼べぇ」

「あ」

ふい、と背を向けたスクアーロは心なしか素早く歩みを進め、瞬きひとつの間にドアノブまで辿りついていた。

「なんだぁ」

何を尋ねたいのかも自覚せぬままに思わず漏れ出た俺の声を拾い上げ、スクアーロは律儀に身体ごと振り返る。

サラリ、と背を追って弧を描いた銀髪が俺の琴線に触れた。

何故、胸が騒ぐのか。

「あの、なんで……なんで俺をここに…?」

何か尋ねなければ。

呼び止めてしまった以上…そして応えてくれる体勢を作ってくれた以上、何か訊いておかなければと頭をフル回転させた結果。

最も素朴で最も重大な疑問を投げかけるに至った。

俺からすれば、家を飛び出したあの日、町で抱きとめられたのが初対面だ。

なんとなく予想がついている答えは――ひとつだけある。

餌として。

彼が噂の通り、伝承の通りの存在なのだとすれば攫われた者はもう二度と戻れない。

定期的に血肉をすすって長寿を得ているのだと言われているが……そんなバカなと呆れていたのは、ここで目が覚めるまでの話。

俺はこの人に食われてしまうのだろう。

現に堂々と食っちまうとまで言っていたのだから。

そのために攫われたのだとしたら……俺は……。

俺、は。



「――特に口にすべき理由はない。お前……行く所なかったんだろぉ。何か問題でもあんのかぁ」

「ない、けど……」



家出をした俺が自ら帰ることはない。

行く所もない。

だから、衣食住が保障してもらえるここはそういう面ではいいのだけれど。

「殺されるのは、ちょっと……」

「はぁ?誰がお前を……あーなるほどなぁ」

俺の言葉をそっくりそのまま受け止めたってかぁ?

何かに気付いたようにそっと目を見開いたスクアーロはドアノブに掛けて残していた右手を解き、肩から力を抜いた。

脱力してブラブラと揺れる腕。

片眉を下げて呆れたようにポカンと開いた口。

はあ、と溜息を落としたスクアーロは額に手を当てて俺への視線を細めた。

「頭からバリバリ食おうって意味じゃねえ。いいかぁ?俺は――」

じっと見上げ、微かに首を傾げながら続く言葉を待っていれば、唐突に口を閉ざしてしまった。

「……めんどくせぇ」

「えええ!?」

説明をしようとしてくれたはずなのに、あっという間、すらもなく撤回するなんて。

早すぎる。

短気?

「とにかく、今のお前を食ったところで俺にメリットはねえ!ただの暇つぶしだぁ!」

わかったらさっさと着替えて食堂に来い!

うまく言葉が見つからず誤魔化しのように声を張ったスクアーロは、今度こそさっさと踵を返して部屋を後にした。

動きに合わせてドアノブがキラリと煌くのが目に眩く映る。

バタン、と大きく響いた扉の開閉音に室内の空気が波打った。

「え……えっと…」

出て行く刹那、ちらりと見えた顔が赤い気もしたけど……気のせいだよね。



「あ」

そういえば。

俺の名前とか、行く先がないとか……どうして知っているんだろう。

「訊けばよかった…」

今になって湧き水のようにどんどんと増えていく疑念を抱えながらも、当面死の危険はないだろうと踏んだ心が緩んだのか。

「着替えってどこだろ」

クローゼットを漁るべく、のほほんと立ち上がったのだった。