PHANTOM 
for T



「はっ…はぁ…」

たった十メートルを疾走したくらいで息が切れるなんて、体力ないなぁ俺。

ともすればガクガクと震えだしてしまいそうになる膝を両手で押さえつけながら、俺はやっと目の前に現れた扉を見上げた。

外見からして重みと厚みを感じさせる木目の大きさ。

大木から丸々切り出したように思えるのは、浮き上がる年輪の大きさのせいだろうか。

黒の鋼で杭を打たれ、縁取られた楕円の天辺はどこからともなく潜り込んだ風に灯が揺れるため、やや不気味に揺らめいている。

長く伸び、扉に覆いかぶさる己の影でさえ、襲い掛かってくるような妄想に取り付かれてしまいそう。

「あー…ないない。そんなのないって」

ぶんぶんと首を大げさに振って、くだらない靄を消し去った。

ネガティブな思考に追い立てられてしまうくらいなら、さっさと明るい場所へ向かうべきなのだ。

惑う指先を叱咤して、立ちはだかる扉に掌を這わせた。

しっとりと肌に吸い付くような湿気を帯びる木の冷たさに、ぞくりと肌が粟立つ。



「……っ」



己の非力を自覚していたから、思い切り押さねば、と心積もりをしていたのに。

まるで手招くように。

両手を広げて迎えるように。

俺が押すまでもなく、扉は進むべき先へと。

吸い込まれるように開いていったのだった。















「え?」



まるでページが破り取られた瞬間。

剥ぎ取る動作に似た切り替わり。

眼前に現れた空間に満ちていたのは、闇。

後ろから背を押すオレンジの灯りのおかげで自身は見えているものの、前はまったく見えなかった。

インク壷をひっくりかえして、固まってしまった机上を思い浮かばせるような、模範的な黒。

脳がフラッシュバックするような感覚の中で、俺は吸いこんだ息を反射的に止めていた。

無。

いや、無ではない。

ここには、闇がある。

何より濃い、漆黒よりもなお黒い闇が。

「……どうして」

何故。

どくどくとやけに大きく感じる鼓動の源。

胸元へと右手をやれば、自然と服を握り締めていた。

何故だろう。



恐怖を、感じない。

ただ……ただ、とてつもなく。

そう、とてつもなく……嫌悪を。

なによりおぞましいものを、感じるのだ。

恐れからではなく、嫌悪から、身体が進むことを拒絶する。

……記憶にはない。

このような闇に嫌悪を感じる理由など。

けれど、確実に。

俺は。






俺は、この闇が―――。


























『間抜けな羽虫が迷いこんできた、か』

















脳を。

臓腑を。

身体の内側から叩くような声音が響く。

部屋中にではない。

俺自身の中に、だ。

心臓から臓物から、手足、指先、その神経の全てに渡って、低い低い、獣の唸りを思わせる声音が行渡っていく。

おぞましい怖気を伴って。



「はっ……!」

思わず発された声は常にあらず、息を吸うと同時に溢れ出てしまった声だった。



己の目を、疑う。



塗りつぶされた黒の中に、輝く赤が二つ。

目の前で、火花を散らすように現れたのだ。

ルビーよりなお深く、炎よりなお強く。

ギラギラと滾っているようにも、無感動に浮いているだけにも思える赤。

純粋なように見えて、不純。

ドロドロと溶けていきそうなのに固定された球体。

それが、手を伸ばせば触れられるほどの位置で、俺を捉えて動かない。



『……相変わらず乳臭えガキだな…』



「っ…あ……」



それが双眸なのだと気付いたのは、暗闇の中から伸びてきたゴツゴツと硬い何かに首を圧迫されてからだった。

パチリと闇が素早く瞬いたことにより、射抜く視線が現れたのだ。

苦しさに喘ぎながら咄嗟に引き付けた手で俺の気管を圧迫するソレを掴んだことにより、目の前の双眸が人の形をしている者の所有物なのだと思い知らされる。

まるで、闇が凝り固まって形作られたような――雪像を連想させる、ソレ。



『ここで圧し折ってやれば連鎖が断ち切られるんだろうが……それでは面白くない』



クツクツと不気味に笑う声音の主はその言葉と裏腹に、俺の首をギリギリと締め付け、握りつぶそうと力を込めている。

鼻頭がじわりと痛みに滲む。

額から生まれた痺れは徐々に目頭から頬へと侵食し始めて…。

苦しい。

ままならない呼吸の先に、死がちらつく。



なのに。







ああ、気持ち悪い。







なのに、なお。

恐怖より先行する嫌悪。

気持ち悪い。

触れられたくない。

この、闇は――。

存在が――。

なにより――。

ああ――。



途切れ途切れ、散り散りになる思考に纏まりなど求められない。

断片的な本能に塗れて、霧散する言葉が誰のものなのか――自分のどこから溢れているのかすらわからない。

叙情。

詩的。

把握しきれない記憶の水底。

伸ばした手も。

抗う爪も。

救いを掴み取ることなど出来ずに。







「スク、ア、ロ…」







零れ落ちた名に自覚すら持てぬまま、ツナの意識は闇へと墜ちていった。


























「か……は…っ!」

膝から力が抜け落ちて、絞めつけられていた首が宙へと投げ出された瞬間、世界から解き放たれる意識の片隅に誰かのかすれた吐息が聞こえた気がした。



「ツナ……」

器官に詰まりそうになる空気を咳払いで肺へと押し込めながら、スクアーロは腕の中の存在へと意識を引き寄せる。

硬く暗く冷たい石の床へ頭部を打ちつける間際、間一髪で阻止することが叶ったツナの身体はぐったりとスクアーロへとしなだれかかっていた。

耳の下、顎骨と首との境に手を差し入れて息を殺せば、確かな脈動を感じることができる。

「――はっ」

乱れる呼吸の中に安堵を織り交ぜたスクアーロは、ぶれる視界を奮い立たせ、俯かせていた顔を上げた。

片膝をつき、肩を抱きこむようにツナを抱えなおしながら瞳孔を引き絞る。

ツナにとっては闇の塊でしかなかった空間も、スクアーロの眼には違った世界が映っているのだ。



『騎士のお出ましにしちゃやけにタイミングがよかったな。謀ったか?』

「XANXUS…」



声と同時に、ツナが開けた扉が集中を乱すが如く大きな音を立てて閉じた。

先ほどまでツナの透き通るような白い細首を掴んでいたのであろう手をブラブラと振って払いながら、ニヤリと口角を引き上げた男。

漆黒に漆黒を重ねた出で立ち。

滴る血を直に注ぎ込んだような紅い瞳。

無造作に下ろされた前髪が揺れる度、肩に引っ掛けただけのようなコートが無遠慮にはためいている。

風などあるわけがないのに。

背後で閉じた扉は木板の中に鉄板が仕込まれている。

館の中でも特別閉ざされた場所――そこで、風を纏っているなどと。

黒の中の黒。

闇の中の闇。

深遠と混沌を纏う覇者。

「何故、ここに、いる」

『俺がどこにいようと俺の勝手だ』

仁王立ちでスクアーロとツナを見下ろす男――XANXUSは、途切れ途切れに言葉を紡ごうとするスクアーロへ嘲笑を差し向けた。

『てめえが俺を把握する必要はない』

眼が潰れそうな闇の中でも、一段浮かびあがるように色濃く映る男の姿を視界に収めながら、スクアーロは細く長い息を吹き出す。

把握する必要はない。

奴がそう言うのならそれを受け入れるしかないにしても……。

「見当はついてるぜぇ」

『ハッ。――――気に食わねえ』

吐き捨てるように息だけで嗤ったXANXUSは表情を一変させ、瞳を凍らせた。

瞬時に下がった口端と共にスクアーロの上体が崩れる。

右肩を、黒のつま先が踏みつけたのだ。

「ぐっ……!」

石畳と有無を言わせぬ強制力に挟まれ、圧迫された肺から抑圧された悲鳴が零れるのを自覚しながらも、スクアーロはツナの身を庇うことに全霊をかけていた。

絶対的な暴力から逃れる術も抗う技も持ち合わせてはいない。

受け流すしか選択肢がないのなら、と己の身も省みずスクアーロはツナを両腕で抱き締めた。

意識がないことに、この時ばかりは感謝を。

「自分のリミットくらい、自分でわかる」

『リミット?終わりか?ふん。終わるものか。いつまでもどこまでも、愚かに繰り返すだけだろう』

「……今日はやけに饒舌だな」

『――ドカスが』

微かに肩を床へと繋ぎとめる足から力が抜けた、と感じたのも刹那。

下腹部へと振り下ろされた靴底によって臓腑が波打つ。

容赦のない圧力が招く胃液の逆流を持てうる力でなんとか抑制するものの、苦痛に濡れた呻きは漏れて。

「ふっ―う……!」

『不毛だな』

その健気さも何もかも。

道端の小石を蹴り飛ばすようにスクアーロのわき腹をひと蹴りすると、興味を失った素振りで顎を上げた。

見下す視線で二人を眺め、瞼を閉じる。

足先から、手先から。

溶けるように、霧散するように。

闇と同化していくXANXUSを見送って、スクアーロはゆっくりと背を浮かせた。

腕の中に庇ったツナを抱えなおしながら、瞳を細める。



『せいぜい楽しませろ』



「……奴隷よりも畜生よりも劣るお前の下僕へと下るのは、俺で十分だ」



脳に響く声音を反芻しながら、スクアーロはザラリと髪を垂らせてツナを覗き込んだ。

閉じた瞼と唇を順に親指でなぞりながら。

ゆっくりと瞬きを繰り返して。
















「ツナ」















複雑な色を含んだ呟きと共に見上げた中空は全てを拒絶する闇だった。