PHANTOM 
for T



踏み出した足は柔らかく茂る芝を踏み、跳ね回る俺の身を一蹴りごとに押し出すよう。

足首に至る長さのドレスを纏っていることに何の疑問も感じないまま、クルリと後ろを振り返りながら空を仰ぐ。

襟足だけが長く伸ばされた髪が首筋を撫でて翻った。

ほがらかな日差し。

眠気を誘うような午後の風。

どこまでも続くような芝の庭。

眼球に薄い膜が張られているかのような、何もかもがセピア色の世界。

空も、大地も、背後にそびえる館も、俺の後を追って小走りに追いついてきた人も、全てセピアの濃淡が織り成す世界で。

『ツナ』

ふざけて逃げ回っていた俺の手を、ようやく捕らえた彼を見上げて。

無意識に上がる口角と感嘆に似た溜息が零れるのを感じながら。

『―――――』

その人の名を――。























「っ…………あれ?」

あまりに突然の覚醒が反射的に疑問の声を促した。

所々くすんだベージュの天井。

投げ出した掌が撫でるふわふわの感触は、毎晩お世話になる羽毛の感覚だ。

何度か寝返りを打ったのだろうシーツには大きな皺が寄っている。

「あ、あれ?」

再度喉の奥からあふれ出た声は一度目に反して意識的。

辺りをそっと見回せば、見慣れた家具が壁際に鎮座している。

紛れもなく、黒の館の中にある俺の寝室。

「眠ってた、ってことだよね」

そうだ。

たしか、夢をみていたような気がする。

どこか心がざわつくような。

それでいてとてもあたたかな。



「う゛お゛ぉい……お前、なぁ」

「ひえ!?え!?あ、あれ?スクアーロ?」

「俺以外に誰がいる」

毎度のことながら「いつの間に」としかいえない程の間近。

横になった俺のすぐ傍、枕元に程近いベッドの端に腰を下ろしたスクアーロが真上を見上げてぼーっとしていた俺を覗き込む。

突然視界に現れたのだから、驚くのは当然だ。

「ぼんやり和みやがって……どこまで呑気なんだぁ」

心地よいぬくもりの中、ピクリとも動かない俺は横になったままだから、俺の視界を占領するスクアーロの髪が重力に従って流れ落ちてくる。

耳に掛けて止めようとしているけれど、カーテンのようにサラサラと。

俺の顔を縁取るように落ちてきた銀色からは微かな花の香りがした。

「なんで?」

「……心配して損、は、してねえが……そうやって何事もなかったみたいにされると拍子抜けもいいところだな」

「ん?何が…………あ」

何かあっただろうか、と首を捻ったのもつかの間。

スッと細められたスクアーロの眼に呆れが浮かんだと同時くらい。

滲むように、痛む首。

そうだ。

何かが。

闇の中にいた何かが、俺の首を絞めて、それで――。

「俺、死んでなかったんだ」

「思い出した、のか?」

「そ、そりゃあ、俺だってバカじゃないんだから」

あれだけの体験をそう簡単に忘れられるほど単純じゃあない。

「死んだと思ってた」

「お前が死んだとすると、ここにいる俺も幽霊かぁ?」

「あは。あんまり笑えないよ、そのジョーク」

もぞもぞと掛け布団を掻き分けながら引き上げた右手で、うっすらと痛みを発する首筋を撫でて、そっと瞼を伏せた。

握りつぶされそうな圧迫感が思い起こされても、怖気は感じない。

絶対死。

必然の死が眼球と意識を塗りつぶしてしまったかのように、何もかも見えなくなったような感覚が俺を襲ったのだ。

盲目的に、従属するが如く。

湧き上がり体内を支配した嫌悪感とは別の場所で、逃避を放棄してしまえるほどの征服力を認めていた。

あの闇は、そういう、圧倒的な何かで――。

「っ!ス、ススススクアーロは!?なんともなかった!?」

「な、何がだぁ」

静かに、顎の下から鎖骨の辺りまで指を這わせていた俺が唐突に語気を荒げたことに隙を突かれたのだろうか。

ピク、と肩を震わせたスクアーロは、身を反らせて俺を見つめた。

「いきなり襲われたりとか、怪我したとか!」

「は?なんともない、が…」

「本当!?本当に!?」

「あ、ああ」

俺から離れたスクアーロを追ってベッドから背を浮かせれば、たじろぐスクアーロが微かに視線を泳がせた。

そのまま後退しようとするものだから、思わず手がスクアーロの襟へと伸びた。

両手でグイっと掴んで、引っ張って。

引き寄せた眼はまん丸で。

「俺を助けてくれたのはスクアーロなんでしょ?」

「まあ、そういうことに、なるか?」

「あの、なんか黒い塊みたいなのを追っ払ってくれたんだよね」

「追い払ったというよりは自分から帰ってったようなもんだが……」

「え?何?なんて?」

「なんでもない!これだけ勢いがあるなら大丈夫だと思っただけだぁ!」

「な、なんでいきなり怒るのさ」

「怒ってねえ!」

怒ってるじゃん、とは言うまい。

これ以上突っ込んだらきっとピリピリしたまま部屋を飛び出していっちゃうだろうから。

話をこじらせたいわけじゃない。

眉間に皺を刻んでいるところを見たいわけじゃない。



…ただ。



「――ありがとう」



お礼を、言いたかっただけ。



死を受け入れていたあの瞬間を信じられないほどに、今俺は生きていてよかったと声を大にして言える。

人形のように扱われていた、満たされすぎた家を飛び出し、俺を受け入れてくれたスクアーロの世界は、軟禁に変わりはなくとも新鮮だったから。

着替えも自分でするし、たまに食後の食器を自分で片付けてみたり、スクアーロの書庫に入り込んでいろんな本を眺めてみたり。

自分から動く、ということの興味深さを知ったから。

まだまだ知りたい。

守られるばかりじゃなくて、自分で立って歩いて、見て聞いて学んで。

得られるものが増えるたびに、もっともっとと求めることが心を躍らせるのだ。

視野が広がることがこんなに浮き足立つことだと知らなかった。

世界は綺麗なものばかりじゃなくって、くすんで、淀んで、醜いところもあるのだと……それすらも知った上で生きていきたいと、思えたから。

だから。

「スクアーロが来てくれて、よかった」

掴んでいた襟から指を解いて、ベッドについたスクアーロの手の甲へと掌を重ねた。



「ツナ」

何故だろう。

スクアーロの声が、やけにかすれて消えそうだった。

今にも俺の目の前から霞んで溶けてしまうかのよう。

重ねていた俺の掌を、指を、手首を捻って反した手で握り返すスクアーロの指はやけに冷たくて。

ふ、と俺の方へ傾いだスクアーロの重心からも逃げはしなかった。

――いや。

逃げる、という選択肢すら浮かばなかったのだ。

微かに注がれた鮮やかな吐息に自然と瞼が重みを増す。

俺の唇へとささやかに触れた温度が想像以上に優しすぎた。



このキスの意味を、俺は知らない。



けれど、たったひとつ。

確信できることがある。
















この心を占めるスクアーロへの『愛』は、恋じゃない。
















「ス――――」



友愛とか、親愛とか……そんな―――だけど。



彼の名を言葉と成す前に訪れた三度目に、目尻から滴がひとつ尾を引いたことは、俺もスクアーロも気付かないままだった。