町を見下ろす高台の、煤と闇で黒く塗られた館。

そこには孤独を纏った怪人が住み着いていて、悠久の永遠を生きている。

ディンドン鐘が鳴る頃に、一人歩きはおやめなさい。

ディンドン鐘が鳴る夜は、彼がそこから降りてきて、餌を捕らえんと目を凝らす。

攫われてしまえばもう二度と、戻ってくることはできないよ。






世界の地図を広げると、どの国に伝わる物にも共通してひとつの黒い点が描かれている。

ある国では海の穴と呼ばれ、また別の国では果ての聖域とも呼ばれ、また違う国では世界のヘソとも呼ばれていた。

誰も到達のできぬ未踏の地。

海流同士のぶつかりにより、踏み入る船は飲みこまれるか弾き出されるかの選択を迫られ、立ち込める暗雲から降り注ぐ稲妻の斜幕によって空路は断ち切られる。

近付くことすら忌避される暗黒点。

しかし、その先には至高の地が在るのだと、古い冒険譚は謳う。

真偽の程はうかがえぬまま。

かつて、世界の果てと呼ばれたそこには―――。













「乾いた土、枯れた木々、澱みで満ちた空によって色の変えられた赤い月、無数の墓標、血塗られた聖堂と黒い廃墟。かつてのここは、今よりも隔絶されてはいなかったが、世界に蔓延る有象無象の者どもが侵略するには少しばかり環境が悪かったのもある」

最も大きな海洋のほぼ中心に位置する島は、手つかずであり、見放された場所でもあった。

「遥か彼方、遠すぎる過去には偶然の産物によって運よく辿りついた者がいたこともあったが、いずれも所詮片道の旅程。真実を伝える術はなく、よって【この世】のヒエラルキーの頂点が人間だ、と定めたのは人間自身だが、真はどこにもないというわけだ」

淘汰する者とされる者の別は。

「人間に与えられた知恵、力、分を凌駕する者の不在を、どう証明するか。【世界のどこにも存在しない】という証明は、この場合成り立たないとは思わないか?」

ピチョ、と響いた水音は反響することなく天を突きぬけていく。

「圧倒的な単体の武力によって人間を捕食することが可能な生物がいないなど、誰がいつ証明したというんだろうな」

わざとらしく踵を鳴らす靴音に続き、粘着質な水音が、段々とスピードを緩めていく。

「作為的な進化によって人の領域を越えさせられたお前の一族は、悲しいほどに謙虚だった、というのもこの事態の一因だ」

なぁ、ツナ。

やがて止んだ背後に迫る足音を振り返って、ぼんやりとツナは顔を上げた。

白い月はいつの間にか禍々しいほどの赤を放っていて。

「………あんた誰」

帽子の鍔に指を掛けた、ダークスーツの男は皮肉げに口元を歪ませた。

「俺か。俺は」



朽ちた聖堂は静まり返る闇の中で蒸すような熱気に包まれていた。

鼻につく臭気に目を細めながら、ゆっくりと首を回せば、悍ましい熱の源がそこかしこ……地を埋め尽くすように横たわり、転がり、潰れ、千切れ、付き立っている。

かつてこの地を埋め尽くした、朽ちかけた墓標の如く。

聖堂のみならず、大きくはない街の半数以上の人間が押し掛けた、丘そのものを、埋め尽くして。

溢れる血肉の赤が、狭い世界を色づけて。



「死神だ」



血だまりの中心で、四肢を赤く染めながら、しかし己の血の一滴も流すことのない琥珀の瞳の少年は、唇を濡らす赤を指の腹で拭っていた。































「おはようツナくん、朝だよ」

瞼に鋭く突き刺さる光に瞼をぎゅっと閉じながら、浮上する意識に任せて息をつく。

シャッと軽やかなレールを滑る音はすでに聞きなれて、ゆっくりと開かれる視界に「おはよう」と零れた挨拶は無意識にほど近いものだった。

鈍い四肢をなんとか引き寄せて上体を起こせば、窓辺から振り返った少女がニコリと笑う。

「……おはよう、京子ちゃん」

「うん、おはようツナくん」

パチパチと数度の瞬きを繰り返し、交わした挨拶の矛先。

かつて『彼』から預けられた猫の名に返事を返したのは、足首までを隠すメイド服を纏った茶色い髪の少女だった。



「あー!ツナさん起きてきちゃいました!あわわ!まだお湯が沸いてないんですよっ」

寝癖の残る頭をポリポリと掻きながら、京子ちゃんに促されるまま開かれた大きな扉を抜けた所で、耳に突き刺さるような叫びが部屋の中を木霊する。

次いでバタバタと掛ける足音は部屋の中心に据えられた長机を迂回して、こちらへ近づいてくるものだった。

「おはようハル。ハルは朝から元気だなぁ」

「そういうツナさんはまた夜更かしですか?ダメですよ!お肌に悪いです!」

おはようございます!と手に持ったポットを揺らしながら眉間に皺を寄せたのは、黒髪をポニーテールに束ね、京子ちゃんとお揃いのメイド服に身を包んだ少女。

ふんわりとした雰囲気の京子ちゃんと並べば、さながら両極のような、快活な空気を纏う女の子である。

「着替えはしているようですが、顔は洗っていませんね?もー、順番がおかしいですっ!」

「だって洗面所遠いし…」

「だからお部屋にお湯を持っていきますって言ってるじゃないですか」

「そこまで面倒みてもらうのは悪いし…」

「そう言うんだったら早く洗ってきてくださいっ!」

「…さっきお湯が沸いてないって言ってたのは誰だっけ……」

「も、もう沸くからいいんです!」

ぷんすかと頭から煙を出すような勢いで唇を尖らせたハルを横目で見つつ、クスクスと笑う京子ちゃんは、毎度おなじみのやり取りを尻目にテーブルクロスの端を整えながら暖炉へと近付いていく。

「最近冷えるようになってきたし、そろそろ火を入れないといけないかな」

「あ、いいよいいよ京子ちゃん。そういうのは俺がするから――」

「いいからツナさんは顔を洗ってきてください!」

はい行った行った、と背中を押され、部屋を突っ切ったまま入ってきた時とは反対側の扉を開いたハルに圧されるがまま部屋を追い出されてしまい…。

「いってらっしゃーい」

と、いう軽い挨拶と共に閉め出されてしまった。

「……おかしい。主従関係がおかしい」

こんなはずじゃなかったんだけど、と首を傾げながらも、俺は言われた通り洗面所のあるバスルームへと足を向けるのだった。




















「うわああああああんツナさあああああんってうええええええええ!」

死神を名乗る男に連れられて黒の館へ戻った俺を出迎えたのは、メイド服の裾を翻して猛ダッシュしてきた黒髪の少女だった。

助走の後の跳躍、そして伸ばされた両手は、しかし俺の全身が血という血で濡れつくしていたことに驚き奇声を発するに至ったらしい。

ぐえ、と俺の腹から漏れた呻き声と、ほぼ同時に巻きついてきた腕の力は、その細腕のどこから湧いてきたんだ、と思えるほどに強い。

これでは彼女の服も汚れてしまったなと、他人事のようにぼんやりと立ちつくしながら、俺はされるがままに抱きしめられていた。

「こんなに汚れちゃうなんて!はやく脱いでください洗濯します!」

血の汚れは早く落とさないとシミになっちゃうんですよ!とお母さんかの如くビシっと指を突きつけた少女は、呆気ないほどにパッと離れ、次の瞬間には俺の衣服に手をかけていて。

「ちょ、ちょっとまってハルちゃん」

焦ったように伸びてきた白い手がその動きを止めるまで、あれよあれよと脱がされてしまっていたのだった。

「こんなところで裸になったら風邪ひいちゃうよ」

「そ、それもそうです。けど、京子ちゃん見てください!ほら乾いてパリパリになってきちゃってますっ」

「あ、ほんとだ」

……二人とも、なんだか論点おかしくないか、と瞬いてから、やっと二人の存在をしっかりと認識することができた。

面識のないはずの少女二人に服を引っぺがされる、すでにパンツ一丁の、俺。

「お前ら相変わらずだな」

呆れたように呟いた自称死神の男の言葉がやけにストンと腹の底に落ちてきたような妙な感覚に支配されたのだった。



なんだかよくわからない少女二人と怪しすぎる男の説明にならない説明によると、少女たちは元々【理性ある死体】リビングデッドの一族に仕えるべく使い魔となった猫なんだそうな。

俺のように、【作為的な進化】を施された者を主とし、その生ある限り共に生きることを望む者。

「といいつつ、私達はツナさんのためにいるんです!」

「ツナくんのために創られたから、気にせずにお世話させてね」

ぐっと拳を握る元猫(いや、今も猫…?)の二人を前に、深く理解する前に気圧され、とりあえず頷いた俺に向かって、死神が深い深い溜息を吐いたのはあえて無視した。

理解が追い付かない。

流されるがままに俺は呆然とここまで来てしまった。



真っ暗闇の中で。

俺は誰を想って叫んだのだったか。

赤い眼光に迫られた選択は誰のためだったのか。

この館は、誰の、ものだったのか。



ねえ、スクアーロ。



「っ!ツナさん!?」

「ツナくん!」

膝から、力が抜けた。

誰かに両肩を押されたかの如く、カクンと折れた膝に従うがまま、床にへたりこむ。

握り込んだ指は白く、冷たく、硬い。

重さに負けてトン、と俯いた首。

額を流れた髪が視界を陰らせる。

「……スクアーロ、は?」

「お前のスクアーロは死んだだろ」

ぽつりと吐き出た呟きには、無機質な即答が返ってきた。

「愚かにも、タダの人間のお前が、アレを生きる死体に変えた諸悪の根源に向かって、代替を願う直前に、あいつは死んだじゃねーか」

なんでもないことかのように、死神は、クルリと螺旋を描く己のもみあげを弄びながら視線を降らせる。

「ついでに、アレを殺した人間どもを、お前が殺し尽くしたじゃねーか」

ちゃんと「いただきます」と「ごちそうさま」は言えたか?

見上げた男の口元は、薄っすらと笑みに滲んでいた。



赤い眼光の男との契約、スクアーロが交わしていた契約を俺が継いだため、館から土地から、力も何もかもが俺に相続されたそうだ。

丘に集まっていた人間は一人残らず俺が殺し尽くしたそうだ。

ほんの一握り、スクアーロを殺した『ボンゴレ』という組織と反目していた『ヴァリアー』という一団だけが生き残り、ほぼ無人と化した街を、今度は彼らが支配するのだそうだ。

……どうでもいい、しかし、知らなかったことばかりが、俺の耳を右から左へと突き抜けていく。

放っておいても人は増える。

いくらでも、何度でも。

そう嗤った黒い死神は、どことなく赤を想わせて。

俺は全てを拒絶するが如く、ゆっくりと瞼を閉じていく。



ただ一つ。朗々と語る死神の言葉の中で、鮮烈に焼付いたのは。

巡り巡る魂の輪廻へ、スクアーロの魂が還ったこと。

しかして縁が深すぎる、その輪廻の行方はおそらく容易く絡め取られて。

微かな可能性で、奇跡の折り重なりで、再び見えることが、あるやもしれない、と。



ポツリと心の奥に灯った光に、無碍な想いを乗せて。

希望と名付けたそれを深く深く沈めたまま、一筋流れた涙で蓋をして。

俺は。



「……人の心はままならない。お前もまた、ただの人であるならば」

「………どういうこと?」

「さあ、な」



いずれ来る終わりの時に、ただただ、想いを馳せるしかなかった。