※女体化注意




バイラオーラ





蒸気機関の熱は冷め、息吹を上げた電気技術が「革命」の名を冠して大陸を駆け抜けていく最中。

戦乱と混乱の歴史を折り重ね、彷徨える人々にもいくつかの安寧が訪れ始めれば、

それに伴って様々な花が咲き始めるものである。人が交われば歌もまた交わり、音が鳴り、足を踏み鳴らして手を叩く。

フランドルの音楽が、色とりどりの魂を注ぎ込まれていった、新たな時代の転換期にて。

これは至極ささやかな、物語というにも憚られる、平凡な日常に含まれるべき悲劇にして喜劇である。









石造りの町並みが長く影の尾を引き始める頃合いに、女主人の号令で次々と灯されるカンテラの灯は、大きく広い室内を水滴を垂らしたかのように滲ませていく。

主人の趣味で諸外国を巡る行商に頼んで集めているという、ひとつとして同じ形のないカンテラが、

いくつも括りつけられた柱と壁、そして雑然と置かれた正方形のテーブルに備え付けられる椅子は決まって二つ。

食事処が並び立つ宿場街のメインストリートにおいても、三店舗分ほどの規模を有するその店には、休日でもないというのにそこかしこからぞくぞくと人が集まってくる。

店に足を踏み入れる人々は職業、年齢様々なれど、一様にみな口角を上げ、夜に染まりつつある空気の中において瞳に星を宿している。

ちらほらと女の姿はあれどもその大半が隣で腰を抱く男の連れであり、圧倒的に働き盛りの男衆が多い室内は一種異様な熱気を孕んで、ひとつまたひとつとテーブルを埋めていく。

いつの間にか現れた給仕の乙女がオーダーを取っては、生ビール「カーニャ」とタパスを携え飛びまわる光景はもはや見慣れた日常の風景であった。

絶やさぬ笑顔は口元のみ。満面の笑みなど子供の遊び。情熱の国という名に違わぬよう、強い光を宿した目は物言わぬ代わりに多彩な光を秘めて男たちを惑わせるのだ。

やがて全てのテーブルに杯が行き渡る頃合いで、ひしめき合うテーブルの波の先、一段高くなった板張りの舞台に、四人の男と一人の乙女が今宵も観衆の目を、星を、奪っていく。

麗しきバイラオーラ、カンタオールのカンテ・ホンド、掻き鳴らされるトケが響き、パルマは賑々しく伸びやかに色を変える。

ヒターノの系譜を受け継ぐ魂と生き様の権化――フラメンコ。

今やどの街にもひとつはあるというほどに広まった「カフェ・カンタンテ」と呼ばれるフラメンコ劇場。

酒と音楽と情熱の舞を堪能させるための社交場は例外なく、この街にも存在する。

カフェ・カンタンテ「flor de cera」――「蝋の花」は、夜毎、地上に墜ちた星を集めて今宵も瞬きを繰り返すのだ。










厚い雲の天蓋に、天上の星々がすっぽりと覆い隠されてしまった夜。

嘆きの如く降る雨は一際大きく地面を抉るかの勢いで、その日の店の客足は女主人が不機嫌に拍車をかけて椅子を蹴り飛ばすほどの遠のき様だった。

常ならば酒気に踊らされてなかなか扉を閉められない「蝋の花」も、踊り子は元より、給仕係まで、ランプの油がもったいないという勢いで割り当てられた部屋に戻されていた。

こんなに早く自分の時間が持てる日は早々ない、と、一人一室を与えられた年頃の乙女らはこっそり持ち込んだ酒や菓子で話に花を咲かせている。

が、主人に見つかればたまったものではないので、一度廊下に出てしまえば夜の闇を吸い込んだようにシンと冷たい空気に静まっていた。

窓ガラスを叩く雨音が、尚のこと他の気配を奪い、流れ落ちていく。

薄汚れた木目の床、取って付けたようなゴテゴテしい飾りをつけた柱をいくつも見送って、一人の少女が足取り重く忍び足で進んでいた。

子供と大人の境、といった風情の背格好は、この国では珍しい肌の色と顔立ちを有し、手に持った蝋燭の灯に溶けるような琥珀色の瞳は眼前の光よりも夜闇を吸い取って暗く沈むようだ。

女主人に気付かれぬようそっと息を殺しながらも、目的地へ迷いなく進む少女は、一つ、二つ、足を踏み出すたびにハァと溜息を吐く。

物憂げ、というよりは息と共に何かを捨てているようにすら見える姿を見つめるものは誰もおらず。

ついに、廊下の端まで到達した少女はぴたりと両足を揃えながらも、ドアには向き合わず、顔だけをそちらへ向けた。

踊り子―― バイラオーラとしてデビューを果たした娘、「姐」と呼ばれる女達が部屋を連ねる階に、まだ舞台に登ることを許されていない小娘が自ら近付くのは、良しとされていない。

しかし、自分の世話をしてくれている姐に呼び出されてしまえば赴かないわけにもいかず。

(今夜は雨が強いから…… 何も聞こえない)

室内の気配を探りつつも、少女はきゅっと唇を引き結ぶ。

派手なノックはご法度。女主人どころか、隣室の姐らに気付かれてしまう。

彼女らの邪魔をしてしまえば、この店でうまく生きていくことなどできないのだから。

そっと、鳴っているのかいないのかすらわからない程度の、、撫でるような手つきで叩いた扉の向こうからは、ただ無言が返されるのみ。

いつものことだ。

返事のないまま扉を開けるのもいつものことで、時と場合によってはそれが正解であり不正解ともなってしまう。

が、そんなものは運と姐のご機嫌にまかせるしかないのだ。少女自身がどうにかできるものではない。

ギ、と立てつけの悪い扉が身を軋ませる音を微かに耳にしながら、少女は体を向き合わせて息を整える。

全てが、いつも通り。

ただ。



目に飛び込んできた黒ずんだシミは床を、壁を、寝台をも汚している。

鼻に到着した臭気は喉にまで絡みつくような鉄の臭い。

音は相変わらず、閉ざした窓を外から叩く水滴の勢いだけだ。



好んでいた赤を全身に纏って床に這いつくばった姐のすぐ傍、腹部に銀色を突き立てられたまましっかりと両足で直立する男の眼光もまた、銀色。

冷徹にして冷静、怜悧な光を真正面から受け止めた少女は、息も忘れてただただ時を見失う。



「………… 逃げたら、殺す」



いつも通りの夜の、いつもと違う『夜』だった。










床に這いつくばり永遠に動き出すことのなくなった姐をそのままに、男がジリジリと近付いてくるのに気付きながらも身じろぐことができなかった少女は、今にもガチガチと鳴り出しそうになる歯をきつく噛みしめていた。

眼前に迫る男は全身を黒の衣装で覆い尽くしており、鮮やかすぎる銀色の髪と瞳が逆に際立って見える。

姿そのものが凶器という雰囲気を漂わせながらも、ともすれば鼻先が触れてしまうのではないかと思しきほどに間近へ迫った男は、少女より頭一つ分高い背を丸めがら、少女の耳元へと唇を近づけた。

「大人しくしてろ。抵抗すれば…… どうなるかくらい想像はつくだろぉ?」

ガキだろうと容赦はしねえ。吹き込まれた言葉は明らかなる脅しで、少女は震える背を心持縮めて眉を下げた。

いつの間にか固く握りしめていた拳は指先が白くなって今にも震えと冷たさでどうにかなってしまいそうだ。

「こんな所に出入りしている医者はどうせ闇医者だろぉ。すぐに呼べ。あと、人目につかない、場所、へ……」

ぐ、と呻き声が残された耳朶から、荒げた吐息ごと気配が離れる。

思わずぱっと上げた視界で、壁際で崩れそうになる膝をなんとか立たせたまま、目を細めた男がこちらを睨み付けていた。

この程度の傷があろうと、お前を逃がすことはない、と言わんばかりに。

少女はパチと瞬きを一つ落として、引き締めていた唇を緩めた。

息をひとつ、ふたつ、吐いて、吸って。

まっすぐに伸ばして握りしめていた拳を解き、掌を重ね合わせる。

「お医者様はすぐに呼べます。こんな店、ですから。人目につかない場所、というとあまり思い当りませんが、俺はこの間一人部屋を与えられたばかりです。

俺の面倒を見ることを義務付けられている人は…… もういません」

ちら、と地に伏せた女に視線を向けた少女の意図を読み取って、男はスッと目を細めた。

見極めようとしているのか、それとも腹が痛むのか、眉間に深い皺が刻まれていく。

「こんな成りなので、同年代の友人もいません。…… かまいませんか?」

「…… いいだろう。連れていけぇ」

妙な気を起こせば、わかっているだろうな? と念を押されながらも、開いたままだった扉をそっと抜ける。

壁から手を離したのであろう、男の気配が追いかけてきた、と思いきや。

背後を振り返るより早く、背中にピタリと張り付いて、肩に手を置かれてしまった事実に、ビク、と背筋が凍る。

腹部から血を流しているにも拘らず意外な動きの素早さに、またひとつ息を呑んだ。

「行け」



逆らう気など、とうの昔に失せていた。









以上、本文より一部抜粋(ページ編成・改行はHP用に再編しています)