秋が微かに寒さを纏い、冬の気配を宿し始めた朝。

鼻から吸い込んだ空気が内臓を駆け巡り、全身を清めるような爽快感を堪能しながら見上げた青は手をかざしてみても遥か彼方。

高らかな風に流されて、雲は糸紡ぐ綿の如く伸び、虚空へと溶け込んでいく。

脈打つ鼓動をもかき消さんほどの大らかな恵みの下、俺たちは……。

「ス、スク?」

「なんだぁ」

「えっと…あの………もしかして、さ」

「……なんだぁ…」

「飛行機、怖かったりす――」

「俺に怖いものなんざねぇえ!!」

「………はい」

言葉とは裏腹に、硬く握り締められた右手へ、触れ合った左手からじわりと滲んだ汗が伝ってきたのは気のせいということにしておいた方が懸命だろうか。

先ほどから忙しなく左右にぶれるスクアーロの瞳孔を見ないようにして、俺はこっそり笑いを噛み殺した。



悪夢と呼ぶにふさわしい、記憶の奥底に封印…したくても出来ない新しすぎる思い出。

『文化祭のコンクールにおいて優勝』などという大それたことをしてしまった俺は今、賞品として受け取った特権を行使してスクアーロと二人、空港のロビーを見回していた。

長期休暇期間以外では滅多に得られない外泊許可。

申請した行き先によって与えられた期間はたったの移動日数含めて三日間だったけれど。

授業をサボって出かけるのだから、最低最短日程で組まれたことは認めざるを得ない。

外泊許可と共に受け取った宿泊券をどこで使うかは、スクと二人で散々悩んだのだけれど……。

「あ。あった。あれだよね。十四番ゲート十時五分発日本行き」

「ん? ああ、あれだなぁ」

発着を知らせる時刻の点滅を見上げて指差せば、隣に並び立ったスクが視線を寄せた。

――日本。

なんだってまた日本なんだという話だが、簡単に言ってしまえば他に宿が取れなかったからだ。

肌寒さを感じ始めた頃合に、南半球でちょっとしたバカンスでも、と思いきや、あまりに急な予約でどこもホテルはいっぱい。

イタリアに住んでいるから、わざわざ隣接するヨーロッパ諸国を巡るのは芸がないし。

ならば。

前回、ザンザスに振り回されてろくな観光が出来なかった俺と周囲にさして興味も示さずひたすら駆け抜けただけだったというスクアーロの二人旅ということで、改めて観光しに…行っとく? みたいなノリになったのだ。

二泊三日……移動に時間がかかるから実質、一泊二日の若干早足気味の旅行。

目的地、日本。

結構な駆け足の旅路になってしまうけれど、丸一日の自由時間があるからいいかな。

徐々に冷え込みが目立ち始めていると聞いた日本の寒さ対策に着込んでいた薄手のコートを脱ぎながら、同じように長袖シャツ一枚の姿になったスクをぼんやりと眺めて。



……などと、呆けていられもしないわけだ。

さきほどから人目のある公共の場所にも関わらず、ずっと握られっぱなしの湿り気を帯びている彼の手を慮るが故に。

「ほら、スク。搭乗開始だって。行かないと」

「……おう」

真っ直ぐ前を見据えたままのスクアーロが、唇の端っこをピクっと引きつらせたのを見逃す俺ではない。

周囲の人々は皆、次々と待合ロビーの席から腰を上げ、美しき空の道先案内人たるCAの微笑みを背に受け搭乗口へと消えていく。

「スク?」

「ああ」

「あの」

「なんだぁ」

「……背中、押してあげようか?」

「怖くねえっ!」

そっと目を細めながらどこまでも続くガラス窓の向こう側――俺達が乗り込む予定のジェット機を見つめてスクアーロは立ち尽くしていた。

怖いわけじゃないっていうけど…だったらどうして動かないのか教えてほしいものだ。

「はいはい。じゃあ行こうか。目の前にいるのに乗り遅れるとかおもしろいことになっちゃわないうちに」

「う゛おぉい! だから、別に怖いわけじゃねえんだぞぉ! ガキ扱いすんなぁ!」

繋がれたままの手をぐいっと引いて先導するように前を行けば、眉間に皺を寄せ、片目をすがめたスクが口をへの字に曲げた。

「落ちるとか爆発するとかは気にしてねえんだぞぉ! ただなぁツナヨシ! あれは鉄の塊だぜぇ!」

「……はいはい」

「鉄は水にも沈むんだぞ! それが飛ぶって…どういうことだぁ!」

「そうだね。科学の力って偉大だね。じゃあ行こうか」

「う゛おぉい! 今適当に流しただろぉ!」

聞けよぉ! と喚きながらも俺の数歩後ろをきちんと自分の足で歩いてついてくるところがなんだかいじらしい。

なんとなく感じ取れるのは、心を占める恐怖の割合は五分といったところだということ。

……前回日本からイタリアに戻って来る時の飛行機ではこんなに抵抗しなかったのに、と思うとちょっと不思議だけど。

甘えられてるっぽい気がしてほんの少しだけ、唇が緩みそうになったことはスクには内緒だ。

きゅ、と繋がれた指を握り返しながら、ツナは今にもおもしろくって恥ずかしくって吹き出してしまいそうになる顔をスクアーロに見つからないよう、微かに俯かせて搭乗口へと進むのであった。

ぷいっと窓の外へとそらせたスクアーロの頬骨辺りが薄赤く色づいていることにも気付かないまま。





Frutte verdi−冬− 青い果実の浪漫飛行より一部抜粋