「暑い……」
首筋を流れる雫が不快感を煽る。
視線を落とせば眼下に広がるのは青くチクチクと突き刺さりそうな芝生。
自慢の庭師が日々手入れの手間を惜しまずにいてくれるのだとさりげなく微笑んでいた九代目の言葉通り、軍手をはめた庭師のおじさんが芝刈り機を押していた。
少し顔を持ち上げれば真っ直ぐに外門へと続く道筋を沿う並木と、水を散らす噴水が眩しくきらめき、眼球を刺激する。
造られた美しさ。
精巧なシンメトリーは観る者の感嘆を煽るのだろう。
人の手が入った自然はとても美しく、それでいていびつで。
……ああ、暑い。日差しが暑い。
脳が溶けているのではないかと錯覚するほど。
広がる世界は激しすぎる陽光を溶け込ませ、明るく照りすぎている。
目に見える『暑さ』が体感温度をぐんぐん引き上げていくようで…。
きっちりと着せられたスーツの上着を片手に纏め、思わず緩めようとネクタイへと伸びた手をハッと気付いて制しながら。
「……こっちは、ダメだ…」
眩暈にも似た頭痛を感じて、俺はさっと身を翻した。
屋敷の表ではなく、裏へと身を隠すために。
何度も。
本来は雇われた使用人のみが出入りする裏口からこっそりと抜け出した俺は、目の前に現れた冷気にほぅ、と息とついた。
サワワと揺れる木々の枝から零れ落ちた木漏れ日は表と違って優しさを帯びている。
刈られ、整えられた芝とは違う、生え方も長さもバラバラの柔らかな雑草が靴裏によってしとやかに踏み潰されていく。
湿り気を装った土の匂い。
時折抜けていく一筋の、糸のような風の感触。
やっぱり俺は、こっちの方が好きだなーなどとうっすら笑みを浮かべながら、ひとつ大きく呼吸して、足を踏み入れた。
屋敷の裏手には林が広がっていた。
森、というほど深くはなく、庭というには似つかわしくない、人が憩うことができる程度の木々の寄り集まり。
かつては森と呼べるほどの緑の楽園だったそうだが、侵入者対策としてトラップを仕掛けざるをえなくなった折にある程度伐採されてしまったそうだ。
もったいない。
だが、見渡す限りの青は疲れ果てた俺の眼にも思考にも穏やかに冷たさを与えてくれる。
ここは、一等気に入っている隠れ場所であった。
夏色の空は眩しすぎる。
青よりも鮮やかに、白く、明るく映えながら、形をはっきりと現す雲を湛えて勝ち誇るようにきらめくのだ。
まるで、お前など矮小な存在なのだ、と知らしめるかのように。
「嫌い、では、ないんだけどなぁ…」
「なにがだぁ」
「………おわぁああ!?」
び、びびびびびっくりした!
言葉が返ってくるはずのない独り言に、まさか疑問を突きつけられようとは。
気配など、微塵も感じなかったのに!
と、考えたところで俺はさっと振り返り……あー…、と納得してしまった。
「スクアーロ……なにしてんの、こんなところで」
「そのセリフ、そっくりそのままお前に返してやってもいいんだぜぇ?」
相手は気配がどうとか口にするまでもなく、日常的に消してしまえるその道のプロだった。
「仕事、は?」
「たまには休ませろ。俺を過労死させる気かぁ?」
よく言う。過労などとは無縁の体力を保持しているくせに。
「好きでやってるんだから、それで死ねたら本望なんじゃないの?」
「好きでやってることが原因で死んじまったら後味悪いじゃねえかぁ」
「死んだら後味も何もないでしょ」
「笑いのタネにはされるだろ」
「………まあ、確かに」
でもスクアーロの場合、どんな状況下であろうと死んだら笑われるような気がする。
同僚や上司によって。
「お前こそどうなんだぁ」
「何が?」
「仕事、だろぉ」
……嫌なところを突いてくる。
痛くはないが、少々答え辛くはある。
「休憩、中?」
「疑問形にしてんじゃねえよ。どうせ『自主』が頭に付くんだろが」
「わかってるんだったら聞かないでよ…」
だって、あまりに外が眩しいから。
書類から顔を上げた時、窓辺から斜めに差し込んできた陽光の鋭さに気分が萎えてしまって。
「こっそり抜け出すのを咎める気はないがなぁ…警備の人間がいるはずだろぉ?」
「扉の前の人たちのこと?……権力って、こういうときのために使うものなん、じゃ、ない、の?」
「違うってわかってるから詰まったんだろ」
じっとり睨めつけてきたスクアーロから顔を逸らしてしまったのは思わず、だ。
後ろめたい気があるから、正面から視線を合わせられない。
「哀れだな」
情けの対象は、おそらくこっぴどく叱られるのであろう警備に配された部下の皆様。
「あー……今日はリボーンがいないから、マシだと思うけど」
「お前にひっついて離れない駄犬が喚き散らすに決まってんじゃねえか」
「駄犬って……獄寺くん?」
「それ以外ねえだろぉ。嵐は奇妙な野郎ばっかりだな。うざいところは雷に匹敵してるがなぁ。…霧は得体が知れねえし、晴は何かと厄介で…雲はよくわかんねえしよぉ」
「あはは…でも誰も彼も俺にとっては必要な人たちばっかりだよ」
そう。誰も彼も。
それが俺の守護者ではなくとも。
「特に…雨は優しい人ばっかりだから」
ふ、と目元を緩めてスクアーロを見上げれば、刹那、開ききった眼と出会う。
でも、やっぱり一瞬だ。
感情の起伏が激しい人、と思われがちだけれど、その実は真意を内包し尽すのが雨の特性だ、と俺は思う。
『沈静』は、己をも悟らせぬ、静めてしまえる強さと儚さ。
「もう少し、我が侭言ってくれてもいいと思うんだけど、ね」
「それは本人に直接言ってやれ」
「この道に引き摺りこんだことで言えば、スクアーロは俺の共犯者だと思うんだけど」
「――フン」
本人の前で、というならば、スクアーロにも立ち会う義務はあるんじゃないかと思うわけだ、俺は。という意を込めてわざとらしく地面を蹴飛ばす。
ま、それは冗談として。
「それに……我が侭言って欲しいのは、山本に限ったことじゃないし」
「……俺の我が侭は、高くつくぜぇ?」
「だろうね」
俺では到底叶えられそうもない無理難題を強いてくるに決まっているのだ、この人は。
大きすぎる懇願は笑いの種にしかなりえない。
俺が気負う必要を奪ってしまう。
そうやって、俺を甘やかすのだから。
「…まあ、それは追々話をつけるとして……なんか意外だったんだけど」
「何がだぁ」
「ここにスクアーロがいたこと」
「……ああ」
「一応ここ、ボンゴレ本邸の庭、でしょ」
「だなぁ。だが、ヴァリアーもボンゴレの一部だろぉ?」
「や、そうなんだけど…」
「それとも、何か?俺がいることに不都合でも生じるのか」
「いや、そんなことはないんだけど…!」
断じて。断じて不都合は生じない。
けれど…なんだかイメージに合わないのだ。
ヴァリアーが、事務的な用件以外でボンゴレ本邸に近付くということが。
「………ここだけだからなぁ」
「なにが?」
「――静かだろ」
「え、ああ、うん」
「ヴァリアーでもなく、ボンゴレでもなく……俺が一人になれるのはここだけだ」
「……どっちの建物も見えてるけど、ね」
「だがここは、何か…違うだろう?」
隔絶されている、というわけではない。
けれど…繋がっていながらも繋がっていない。
林は、トラップを仕掛けられてからというもの、緻密な整備は行われていなかった。
ボンゴレの敷地でありながら、野放しにされて、ヴァリアー本部に程近くありながら、ヴァリアーのものではない。
考えてみれば…ここは特殊な空間なのかもしれない。
「てことは…もしかしなくても、俺邪魔した?」
「別に邪魔はしてねえだろ。第一、お前が頭なんだから、ここもお前のものだ」
どっちかっつうと俺の方が邪魔なんじゃねえのかぁ?
何を考えて、何を思ってここに足を運んだのか。
スクアーロの心理が俺に読めるはずもないけれど、きっと憩う邪魔をしたに違いないのに。
「じゃあなぁ」
ひらりと手を振って、立ち去ろうとする背中。
一人に、なりたかったのだろうか。
何か思うところがあるのだろうか。
…けれど、それを洗いざらい俺に言ってみろという傲慢は通用しないだろう。
顔を合わせれば無理なく言葉を交わしてくれるようになった彼らだが、何かを語ってもらえるほど近付いているという自尊もない。
深すぎた溝は埋まりつつあれど、一定の距離を保とうとする垣根を崩すにはもう少し時間が必要だ。
……ならば。
「スクアーロ!」
数歩。
ボンゴレ本邸と林を挟んで隣り合うヴァリアー本部へ足を向けているスクアーロの背へと駆け。
「っ!いてえ!」
「あ、ごめん」
ずるずると無駄に長い髪をひっつかみ、強制的に歩みを止めてやった。
「てめえ!なにしやがる!」
「ここは、俺のじゃないから!」
「…………はぁ?」
頭皮を押さえ、うっすらと涙を這わせた瞳が瞬時に困惑へと染まる。
首を回して俺へ振り向いた銀色は、苛烈な陽光を跳ね返してキラリと煌いた。
「十代目を継ぐって言っちゃっただけで、まだ何にもしてないし!」
「言っちゃったって…お前なぁ…」
「遺産相続とかしてないし!」
「不吉なこと言ってんじゃねえか。お前、九代目を殺す気かぁ?」
眉根を寄せながらもニヤリと笑んで見せた表情に、少しだけ心が凪ぐ。
ああ、いつもどおりだと。
「だから……だから!」
「………ああ」
「スクアーロは、好き勝手にする方が、らしいと思う!」
………。
我ながら、語彙力のなさに辟易とする。
何か、違う。
伝えたいことと言っていることが、若干ずれているような気がして仕方がない。
けれど、どうすることもできないじゃないか。
俺がスクアーロの貴重な『時間』を奪うことなどしたくないから。
ああ、頭悪いなぁ。
『ここに来たければくればいい』じゃ、俺の所持権を主張しているみたいで嫌だし。
『俺のこと無視して』というのはなんだか寂しい。
『俺はもうここには来ないから、邪魔しないから』というとまるで責めているようで。
……伝えきれない。
伝えたくとも、言葉が足りない。難しい。
そうじゃない。
そうじゃないんだけど…。
この有り余る叙情を声へ乗せるのは…困難すぎて頭が痛くなりそうだ。
「く…」
「……え?」
「くく…」
思わず頭を抱えてうつむいていると、頭上に何やら堪えるような声音が降り注いできた。
「お前、なぁ…」
「え?あ、あれ?」
見上げた先にいたのは、身体ごと俺へと向かい合ってくれている、銀色の人。
開いていた数歩の距離はいつの間にか埋められて、木々の隙間から覗く空と共に、俺の視界を埋め尽くす。
「言うように、なったじゃねえかぁ」
「え?へ?」
「生意気な、くそガキがぁ…」
「い、いひゃい!いひゃいいひゃい!」
不意打ちだ。
むんずと頬をつままれて、曲がった俺の唇から紡がれるのは苦痛を訴える奇声。
…ああ、ムカツク。
思っていたより敏感に俺の心意気を酌んだスクアーロが、不敵に笑うのが、なんだかムカツク。
見なくてもわかるほど、俺の頬には赤みが走っているだろうから。
「次に会う時には、気配くらい察知できるようになってろよぉ」
……それは、ここで再び、という意味なのだろうか。
それとも。
ぱちくりと目を見開いてしまった俺を眺めるだけ眺めて口元の笑みを深めたスクアーロは、ドンと俺を突き放した。
後ろによろめきながらも、こけるほどの力ではなくて。
バランスを取りながら、再び開いた数歩の距離は――焦燥感を煽るものではなくなっていた。
「ああ、なんだ」
「…?」
押された肩をさすりながら視線を向ければ、その目つきは酷く和らいでいて。
なんだろう。
肺が、縮むような感覚。
ぞくりと、けれど冷たくはない、ささやかな震えが胸の奥底から全身へといきわたる。
「似合ってんじゃねえか」
何が、とは聞けなかった。
ただ、何故か湧き上がってこようとする眼球の裏からの熱さを食い止めるのに、俺は必死で。
「またなぁ、ボンゴレ十世――沢田綱吉」
すっと近付いてきたスクアーロの左手が俺の右手中指に嵌められた指輪を撫で。
反対の手でネクタイを引き寄せ。
「――ただの挨拶だ。気にするな」
音も立てずに柔らかでささやかな熱が頬へと触れたのは、全てほぼ同時。
それが何かもわからないまま。
何を指しているのかも、わからないまま。
立ち去る背を見送ることも、できないまま。
どこからか噴出してくる熱にいつの間にか膝をつき、吹きぬける風に頬を冷まされながら、見上げた夏色の空はただ眩しかった。
つづく、と思います(何)