人魚姫
この辺りの海域は、季節によってセイレーンの旅程と重なる。
普段は大人しく自らの領海から出ることのないセイレーン達も、夏の暑さが滲む頃になると域を越え、北の海へと休息を求めるように旅をするのだ。
彼女らの歌声は海を躍らせ、天をうねらせ、人を惑わす。
引きずり込まれた海の中、藻屑となるより他に道はなく、しかしその旅程の理を紐解くことは、人間達の知恵では未だ成すことができずにいた。
季節という大まかな目安は見えていたが、彼女らがどこから来てどこへ向かうのか、危険をはらむ探索は誰の帰還も許されることがなかったのだ。
そして今日もまた一人。
「ゔおぉいちょっと待てぇええええ!」
……セイレーンとは関係なく、海の藻屑と消えようとしている男がいた。
「えっと……」
揺れる海面に身を委ねつつ、ひれの付いた尾で一つ水中を叩いて浮上する。水面に顔を出してみれば、視界が様々な色の光でパッと照らされた。
遅れて耳に届くドンドンと腹に響いた音に知らずきゅっと唇を結んだ。
旅をするうちに何度か目にした人間の船団。
遭遇するのもまばらだが、本当に稀に、夜空を光と音で彩る者達がいた。
長く生きる仲間の経験と知恵により、空に光が散る物は攻撃の類ではないと教えられていたため、好奇心に背を押されてこっそりと海面から顔を出すのが昨今の若いセイレーンの流行りと化している。
ただ、群れから離れることをあまり良しとされていないため、大人数で抜け出すことはできないし、距離にも気をつけなければならない。
船に近付きすぎて人間に姿を見られるのも厄介だ。
本能で歌うセイレーンは、人間から良い顔をされることがない。忌避されているうちはいいが、調子に乗った不届き者がセイレーンを捕えようと攻撃を加えてくる場合もある。
領海を侵す者には容赦のないセイレーンも、別段好戦的というわけではない。無用な争いは避けたい……というよりは面倒くさいという体だ。
群れに迷惑をかけないよう注意しつつも、今宵海面に姿を現したセイレーンは思ったより船の近くに寄ってしまっていたらしく、大きな音と光に目を見開いたまま固まっていた。
だが、音を立てなければ、夜の暗い海面に潜む姿を見とめられる可能性は低い。
声を上げぬよう口を噤んだまま、セイレーンは空を見上げていた。
が。
「えーっと……あれは……一体……?」
波間に揺られるがまま空の光を堪能していたセイレーンは、ふと耳に届く音の中に、腹に響く音とは違う、何やら人同士の騒がしい声音が混じっていることに気付いて、思わず視線を巡らせていた。
左耳に手を添えて音源を探ると、どうも舳で人が争っているようだ。硬質な物同士がぶつかり合うような音まで聞こえてくる。
空の光と音は争うための物ではないはず、と己の知識に首を傾げながらも、好奇心に踊らされたセイレーンはそっと水を蹴った。できるだけ静かに舳へと回り込む。
こういった船は大概人々の楽しげな歌や踊りで満ちているのだ。そのセイレーンは仲間内から臆病者、と揶揄されることが多かったが、本能的に歌という者に関しては無条件に関心が向いていた。
何やらどんどん騒がしくなっていく船首を見ようと、そーっと首を伸ばし、身体を逸らせたセイレーンは、目に飛び込んできた光景に「ひえっ」と小さく声を残して慌てて水中へと引っ込んだ。
「な、なななななんだあれ」
水中でくるくると回りながら首を傾げつつ、こんな一瞬だけでは何もわかりゃしないと、もう一度そっと、今度は目だけを水中から出してみた。
いくつもの篝火で照らし出された船首、舳の辺りには、人間の……おそらく男が一人立っていた。
否、立たされていた。
「ゔおぉいちょっと待てぇ!何すんだ貴様らぁ!!」
全身をロープでぐるぐる巻きにされた状態で。
「うーんまあねえ……これはたしかにどうかと思うんだけどねぇ」
「だったらやめやがれぇルッスーリア!」
「ボスが何か余興しろっていうからしょーがないんじゃね?ししし」
「だったらてめえがやってみろぉベル!」
「やだよ。オレ王子だもん」
どうやら足元のロープだけが長く伸びて、舳の女神像に括りつけてあるらしい。
だがしかし、この状況はどう見ても……。
「……夜の海に飛び込もうとしてる……?まさか、ね」
季節は夏、とはいえ夜の海は太陽の恩恵を失った水の宝庫。人の身にはいささか辛いものがあるのではなかろうか。
まして、どうみても衣服をまとっている。仲間の歌によって沈む人間達を見送ったことが何度かあるが、必ずといっていい程、身に纏う布に阻害されてまっとうに泳げずもがき苦しんでいたように思える。
ウソだろ、という眼差しの色を濃くして、セイレーンは人間達の動向を見守るしかできない。
ぐるぐる巻きにされている男性は、会話している相手に棒のようなものでぐいぐい背を押されているようだ。じわじわと舳の更に先、本来人が立つためにはないはずの先端へとものすごいバランスの良さで姿勢を保っている。
ゆらゆら揺れる篝火の光に照らされたその男は、長い髪を潮風に散らして、背後に向かって怒鳴り声を上げている。耳障りな音色。だが、それ以上に。
「うわぁ……すごいきれい」
ドン、と。空にまたひとつ散った光の粒に照らされた男の髪が、色を溶かし込んでキラキラと輝いた。時折人間達が落としていく刃のような色と、気温の低い北の海の空から昇る月のような色。否、それ以上に――。冷たい光の中に、空の粒が溶けていく。
キラキラ、ヒラヒラ。
ぼんやりと目を惹かれたセイレーンは無意識のうちに背を逸らせてもっとよくその様を見ようと、身体を水面に現していた。
「ゔおおぉい待てぇ!本気でちょっと待てぇ!」
「だーいじょうぶよスクアーロ!一応ちゃんと足のロープは繋いであるから!」
「レッツバンジー!」
「アホかぁああああ!」
「あ」
パシャン、と思わず尾で水面を叩く。
あたかもそれを合図としたかのように、男の体が宙を舞ったではないか。
「うそうそうそ。うそだろ!?」
反射的に、セイレーンは水を掻いていた。
離れた距離を詰めるようにスイスイと波間を潜る。
泳ぐことと歌うことだけで生きているといっても過言ではないセイレーンにとって、たとえ仲間内から落ちこぼれと評されている身であろうとも、目視できる程度の距離を埋めるのにさほど時間を要することはない。
「大体あの野郎、まったくこっち見てねえじゃねえかぁあああああ!」
よくわからない断末魔を残して、ドポーンという派手な入水音が静かな海面を叩いた。
「うわあああ本当にやっちゃった!」
思わず泳ぐ身体をピタリと止めて、その軌道を目で追ってしまった。
綺麗な弧を描いた男――確かスクアーロと呼ばれていた――は、バンジーと言われていたにも関わらず、問答無用で海の中へと頭から突っ込んでいた。浮き上がる様子もない。
「そんなバカな――――って、え……?」
慌てて再び泳ぎの体勢へと移ったセイレーンの耳に、聞き慣れた旋律が微かにだが届いた。
セイレーンという種族ならば誰もが知っているその音。旋律。その歌は。
「え……嘘だろなんで!?」
パシャン、と大きく海を叩く。
よく知った歌だ。海に生きることを喜ぶ、幼子に歌う子守唄。
母なる海を讃え、美しき静かなる夜を望むその歌。
しかし、その歌声は。
「誰だよこんな所でバカみたいに歌っちゃってるのは!」
悪態をついた瞬間、小馬鹿にするかのように高まった波が、ザブンとセイレーンを呑み込んだ。
セイレーンの歌声は、違うことなく嵐を呼ぶ。
瞬く間に強さを増す風に、人々も異変を感じ始めたようだ。歌声が直接は鼓膜を叩くことがなかったとしても、嵐の予感を含む風は風読みに長けた人の子に今宵の宴の終焉を告げたらしい。
ドオ、と傾ぐ船体に再び目を向けたセイレーンは、ハッと気付いて舳に視線を彷徨わせた。さっき落とされた人は……。
「うわーちょっとヤバくね?」
「スクアーロー!早く自力で上がってきなさーい!もうそっちまで行けそうもないわ~!」
見捨てられていた。
確かに波が高くなって船体が大きく揺らされているため、舳に括りつけられたロープまでたどり着くのも、まして手繰り寄せることも難しいことだろう。
「――あれ?ロープ……なくない?」
目を凝らしたセイレーンは思わずといった調子でヒュッと息を呑んだ。
確かにロープの先が結ばれていたはずの舳には、どこかで擦れてしまったのか、ぷっつりと先の途絶えた残骸しか残されていないように見える。
瞬きを忘れた瞳は、せわしなく左右に揺れていた。
人間と関わりを持ってはいけない。
容易く近付いてはならない。
不可侵の領域を侵そうとする者には、人間には、容赦ない報復を。
戦いは好まずとも、弄ぶことは嫌いではないセイレーンの気質は『自由』にして『奔放』であった。
誰かが気まぐれに歌った旋律で、船団が一つ翻弄され、沈められようとしている。
目を奪われた銀色が、夜の海の混沌に飲みこまれようとしている。
ポツ、ポツ、と空の涙が顔に降りかかるのを感じて、セイレーンは目を閉じた。
嵐が来る。
知れず、握りしめていた拳を唇に押し当てる。
どうするべきか、ではなく。
どうしたいか、と。
言葉通りの『瞬く間』に、海は穏やかな顔を覆し、様変わりを果たしていた。
ぱちぱちと視界を晴らせながら、セイレーンはぐっと身を乗り出す。
息を吸うが如く波を読み、吐くが如く水面を縫う。
鱗が描く滴の螺旋を残光に、トプンと。荒れ始めたその場にそぐわぬ滑らかな音を残して、セイレーンはスルリと滑りこむように、海の中へと身を躍らせた。
もがくことすら許されぬ間に沈んでいく、男の痩躯を追いかけて。
以上、本文より一部抜粋