初代様がみてる 3
「ふあ…あ」
眠れぬ夜を過ごし…たわけじゃないけど、やっぱりちょっといつもより眠い。
朝、いつもどおりに目覚め、いつもどおりに朝ごはんをかきこんで、いつもどおりに家を飛び出した俺は早歩きで校舎へと続く石畳を闊歩していた。
止まらないあくびをかみ殺すことも出来ず、口元を覆い隠す右掌は宙に浮いたまま。
人がまばらになった廊下を抜けて教室へ踏み込めば、今日もまた平和な学園生活が……。
「沢田さぁあああん!!!」
「ふおわぁあ!?」
さわさわと静かにざわめく教室の中へそっと入り込んだはずだったのに、入室と同時に飛び掛ってきた人影。
ガシリと肩を掴んで離さないその人は、とてもとても見覚えがあって…。
「ご、獄寺くん…朝から元気だね…」
「それはどうも!褒めていただいて光栄です!」
「いや、だから、なんで敬語なの…」
他の人には常に警戒態勢。
または無関心を決め込むというのに、俺に対しては異様な関心と好意を持って接してくる獄寺くん。
頭はいいのに素行が悪いと、一年生のみならず他学年にも悪名を轟かせるお人。
だというのに……所属している写真部の活動とやらで偶然俺をファインダーに収めて以来、過剰なまでの友情でもって俺へとかかってくるのだ。
迷惑では、ない、と思う。
ただ……ちょっと怖いかも。
「!そうだ!それよりも!そんなことよりも!!」
「わ!ちょ、ちょっと、揺らさ、ないでっ」
俺の両肩を掴んだまま前後に揺さぶる獄寺くんは完全に自分の世界に入り込んでいる。
こうなると俺の声も届かなくなるのだ。
「沢田さんが、紅薔薇のつぼみを振ったってホントっすか!?」
「ぶっ!」
な、なななななななな。
「なにそれ!」
「ウソっすよね!そんな、あんなどこの馬の骨とも知れねえ野郎に沢田さんが目ぇつけられるなんて…いや、断ったなら、いいのか?いやよくない!あわよ
くばとつけ狙い始めたらどうする…!許すかそんなこと!俺の…俺の沢田さんにぃいいい!」
「ど、どうしちゃったの獄寺くん…!?」
いきなり何かをぶつぶつと呟いた後、激しくシャウトした獄寺くん。
…結構多々ある出来事なので怯えはしなくなったけど……心配にはなるようになった。
何を考えているのかよくわからないからだ。
まだまだ若い身空。
この先、こんな調子で生きていけるのだろうか。
心配だ。
人の心配してる場合じゃないけど。
「ウソ、ですよね!ウソって言ってください!」
「え、えっと…あの、その…そ、それより、その話誰に聴いたの…?」
「噂になってるんすよ。今まで妹を作る気配がまったく感じられなかった紅薔薇のつぼみに目をつけられるほどの一年生が残ってたのかって!」
そりゃあ沢田さんを見初めるのは目が高いかもしれませんが、それとこれとは話が別で…!
訊いてもいないことを必死に言い連ねる獄寺くんがなんだかすごくて、俺は口をぽかんと開けたまま動けないでいた。
噂になっている?
俺が、スクアーロさまに姉妹の契りをお断りしたことが?
そんな馬鹿な。
あそこにいたのは生徒会の皆様と部外者の俺が一人。
どうやって噂が広まるというのか。
………。
…そんなこと、わかりきっているではないか。
あの場にいた、どなたかが噂を流したのだ。
なんてことだ。
なんてことを。
俺の平和な日常生活を、引っ掻き回したいというのだろうか。
ああ、こんなことならば誰にも口外しないでくれとお願いしておくべきだった。
…いや、俺の『お願い』ごときであの方々が止まるはずはない。
特に、薔薇様方は。
「うう……」
「さ、沢田さん…?」
「獄寺くん…今は、そっとしておいてくれる?」
「え……あ、はい。もちろんです!」
ごめんね。
授業前の生徒で溢れかえる教室というこの場で詳しい説明なんてしちゃったら、噂を増長させてしまうかもしれないから。
クラスメイトたちは俺の人となりを知っているから、チラリと顔を盗み見て『まさかね』的な表情で談笑の輪に戻っていく。
そう、それでいい。
それが正しい反応だ。
俺は絵に描いたような平凡な少年なんだから。
むしろ、平凡以下かもしれない、凡庸な人間なんだから。
何かの間違いだと思われているくらいが丁度いい。
……だって、実際、何かの間違いみたいなものなんだし。
「沢田さん、教師の野郎が来ますよ」
「あ、うん。ありがと」
自分の席へと早足で向かい、腰掛けながら思考に耽る。
スクアーロさまのアレは、その場の勢いでしかなかったんだ。
あの場に居合わせた生徒なら、一年生ならば、きっと誰でもよかったんだろう。
役を降りるため。
嫌なことからさっさと逃げるために俺を使おうとしたに過ぎない。
そんなことで……。
いくら憧れのスクアーロさまだからって、妹になったりなんか、できないよ。
そんなので妹になったって、全然嬉しくない。
そんなので妹になったって……スクアーロさまとの距離はまったく縮まらないに決まっているじゃないか。
だったら妹ってなんだ。
必要最低限の道具?
いや、道具以下だ。
もし、微かにでも俺がスクアーロさまのお役に立つ可能性があったなら…その自信を持っていたら、あの時妹となることを良しとしたかもしれない。
でも、そんなことありえない。
俺が。
平凡以下の俺が、スクアーロさまのお役に立つだなんて。
きっと足を引っ張るだけ。
関心を抱かれるわけでもなく、みじめったらしくくっついていることしか出来ないなんて…情けなさすぎる。
だから、必要となんてされていない妹に、俺がなることは出来ない。
なっていいのは……必要とされてみせる自信のある人間だけだ。
「………俺って、やっぱダメだなぁ…」
「沢田さん…?」
「え?獄寺、くん?」
「大丈夫っすか?ずっとボーっとしてましたけど…もう一限目終わりましたよ?」
「え……ええええええ!?」
いつの間に!?
お、俺、そんなに考え込んでたの!?
ていうか授業聞いてない!
ノートも書いてない!
「獄寺くん!あとでノート見せてくれない!?昼休みにでも!」
「はい!もちろん、俺のでよかったら」
「あーよかったー…ありがとう獄寺くん」
もう…ちょっとしっかりしようよ俺。
先生に当てられなかったことだけが幸運だった。
「よっ!ツナ」
「山本!」
授業中ずいぶんぼんやりしてたなーとニコニコしながら話かけてきたのは野球部のエース山本武。
山本はクラスの人気者で、誰にでも分け隔てなく明るく接してくれるいい奴だ。
俺がこの学校に入学して初めて出来た友達。
「なんか変な噂立ってるけど、あんま気にすんなよ」
「や、山本も聞いたんだ」
「んー…つうか、多分もう学校中に知れ渡ってるぜ?ほら、廊下見てみろよ」
あっちあっち、と指差された方へと俺とやけに睨みを利かせた獄寺くんが顔を向ければ…。
「……なにあれ」
「ちっ!なんなんだあいつら!」
わらわらと群れを成す生徒たちが、次から次へと入り口へ顔を出し、近くにいる生徒に目配せをしている。
ひそひそと声を交し合い、教室内をきょろきょろと見渡す人々。
そうして、誰もがつまらなさそうな顔をして、名残惜しそうに我がクラスから離れていく。
何事?
「みーんな、ツナを見に来た奴らだぜ」
「ああなるほど俺を――って、ええ!?」
俺!?俺を見に来た!?見てどうするの!
疑問を貼り付けたままパッと顔を上げた俺を見て、山本はそっと苦笑する。
「ありゃ全員他学年だぜ。一年でツナのこと知らない奴ってそうそういないから」
獄寺の写真のおかげでツナの顔、結構知れ渡ってるし、と笑う山本が少しだけ憎らしい。
だから、そんな名の知られ方嬉しくないんだってば。
「紅薔薇のつぼみ様を振ったっつう一年坊主に興味があるんだと。今のところ、クラスの奴らはみんな気利かせて『沢田は今いません』で通してるから」
安心しろ、って山本は笑うけど……安心、してていいのかな?
「そのうち諦めて忘れちまうだろ。それまでの辛抱、な?」
人の噂なんてそう長持ちするもんじゃないんだから。
そういって俺の肩をポン、と叩く山本の輝くばかりの笑顔を、俺は直視できずにいた。
うん、普通はそうだよね。
根も葉もない噂なら、ね。
けど……心配してくれる獄寺くんや励ましてくれる山本には大変申し訳ないんだけど、噂は噂、なんて言葉では片付けられない真実なわけで。
「うう……」
「おい山本!沢田さんに必要以上のプレッシャー与えてんじゃねえぞ!」
ああ獄寺くん、違うんだよー…。
「わりっ。ツナ、ホントに気にすんなよ」
「あと沢田さん、昼休みと放課後は教室にいない方がいいっすよ」
「へ?」
「なんでも、あのしつこさで有名な新聞部が沢田さんに突撃取材するんだって意気込んでるみたいっすから」
「なんでそんなのこと知ってんの?写真部だよね獄寺くん」
「…部室が隣なんすよ。一人でカメラの手入れしてたら、壁一枚隔てた先の大声は嫌でも聞こえちまうんです」
「盗み聞きか獄寺!お前ホントに抜け目ねえな〜」
「違うっつってんだろ!聞きたくなくても聞こえるんだ!不可抗力ってやつなんだよ!」
俺がこっそり頭を抱えているうちに、山本と獄寺くんはもはや日課となっている漫才を始めてしまっていた。
楽しそうで何より。
俺の日常がここにあるということを、二人のおかげで認識できる。
うん。今は、耐えよう。
とりあえず、真実を知りたそうにしている生徒の皆さんから逃げながら。
噂は本当なんですーなんて言ったりしたら、エスカレートするだけに決まってるんだから!
……あ、でも、お昼休みくらいに、山本と獄寺くんには本当のこと言っておこうかな。
友達、だし。
そんなことを考えているうちに、ざわつき始めた空気をよそに午前の時は過ぎていった。
「あ、ちょっと!」
「ああ?」
……獄寺くん、その受け答えは怖いよ。
眉間に深々と皺を刻み、歯を噛み締めながら唇を歪め、さも嫌々ですという表情を貼り付けた獄寺くんが、呼び止めた声の発信源へと視線を投げる。
放課後。
掃除を終えてゴミをゴミ捨て場に運ぶべく大きなポリ袋を俺が持ち上げた瞬間の出来事だった。
メモを携えた生徒が三人。
何やらそわそわした様子でドアの近くにいた俺と獄寺くんに話かけてきた。
「ああ、獄寺じゃん。丁度良かった!」
「…良くねえよ。新聞部の二年生三人が寄ってたかってなんの用だ」
……新聞部。
わざわざ説明するように獄寺くんが言ったのはわざとだろう。
俺に、この人たちが新聞部だと知らせるために。
「沢田くんだよ沢田くん!かの紅薔薇のつぼみ様のお申し出に反発したという、君ご自慢の被写体くん!噂の中心人物だろ。ちょっと紹介してくれよ」
「馴れ馴れしくすんじゃねえ!……おい山田」
「………え?」
「ゴミ捨て行ってこい。そのまま帰っていいから。後の片付けは俺がやっとく」
ついでにこいつら追っ払うから。
実に素っ気なく。
実に冷たく。
ひらひらと掌を上下に振って俺を追い払う仕草をする獄寺くんの瞳は、辛そうに揺れていた。
すんません!という言葉を如実に語っている。
ということは、山田って、俺か!
獄寺くんが気を利かせて俺を逃がしてくれようとしているのだろう。
…すごいなぁ。咄嗟に対処できるなんて。
やっぱり頭のいい人って違う!
ありがとう獄寺くん!
この好意を無駄にしないためにも、俺は全力で逃げ切ってみせるよ!
万歳三唱と選手宣誓を同時にしている気分。
「わ、わかったよ獄寺くん。じゃああとよろしくね」
一言だけ告げてさっと自分の鞄を取ってきた俺は、すり抜けるように新聞部三人の脇を通り抜けた。
…うん、見事に俺が沢田だって気付いてない。
いいことなのか、悪いことなのか。
獄寺くんの判断力と演技力に『ありがとう』と手を合わせながら、俺は小走りにゴミ捨て場へと駆けていった。
どすん、と重みのある袋を放りだして、俺は思わず溜息をついた。
なんだかとっても肩が重い。
持ってきたゴミの重さのせいだけじゃない。
いわゆるストレス?
気付けば一日中、誰かに嗅ぎまわれていたような気がするのだ。
落ち着かない。
こんなの、俺の日常じゃない。
注目なんて(俺の自覚があるところでは)されたことないから、どうしたらいいのかわからない。
噂はウソです!なんてことを大声で言ってみせる度胸も、俺にはないし。
どうすればいいんだろう。
噂はいつか消える?
いや、噂を流したのは生徒会の誰かなのだ。
一癖も二癖もある人物揃いのあの集団に所属する人間が、そう簡単に俺を逃がしてくれるわけがない。
スクアーロさまの指輪を受け取らなければいいだけの話ではなくなってきたような気さえする。
ああもう、どうしよう。
俺はどうしたらいいんだろう!
がっくりと頭を下げて、地面に溜息を吐き出した……その時だった。
「さっさと俺の指輪を受け取ればいい」
よく通る、低い声音。
鼓膜をぞくりと震わせる、魅力的な音色。
はっ!と俺が顔を上げようとした刹那、その声の持ち主と思われる人物からニュっと腕が伸びてきて…。
「ひゃわ!」
「そうすりゃ面倒な野次馬もいなくなるし、新聞部の取材だって俺が受けてやるぜぇ?」
後ろから腕を回され、クイと顎を持ち上げられる。
仰け反るように後ろを……いや、ほぼ真上を見上げるような形になった。
そこに現れる、銀色。
「名案だろ?」
「と、とんでもありません!」
そうなったらシンデレラを俺がやらなきゃいけなくなるじゃないですか!
震えだしそうな唇を叱咤して言葉を紡げば、面白おかしそうに目を細めたその人――スクアーロさまは俺の顎を捕らえていた指先をゆっくりと下げ始めた。
喉のラインを辿る感触。
肌を越えて、肉まで撫でられているような錯覚。
「それは残念」
「っ!は、離して、ください」
くつくつと笑いながら俺の訴えを聞き入れてくださったスクアーロさまがパッと手を離した瞬間に、俺はさっと身を反転させて後ろへ下がった。
向き合うスクアーロさまと俺の間に開いた距離。
約二歩分の、確かな距離。
「からかわないでくださいっ!」
「からかってねえよ。本心だ」
「な、なお、たちが悪いです…」
お前がその気になるなら、さっき言ったことは全部現実になるぜぇ?とおっしゃるスクアーロさまの瞳がふっと緩められた。
全部…。
噂も消える?
野次馬もいなくなる?
新聞部の取材も、スクアーロさまが受けるということ?
でも、それは……。
「っと。それはそうと……お前、これから何か用事があるか?」
「…いえ、特に予定はありません、が……」
あ、しまった。
嫌な予感しかしない。
ウソでも予定が詰まってますって言うべきだった……かも、と思ったけど、無理だ。
スクアーロさまを俺がだますなんて…出来る自信はこれっぽっちもない。
「よし。なら体育館に来い」
「え!?」
「お前にとっても大事なことだぁ」
「ええ!?」
な、なにごと!?
何があるっていうんですか!?と問いかける間も与えられず、腕を引っ掴んだスクアーロさまに引き摺られる形で俺は一路、体育館へと進路を向けざるを得なくなったのだった。
初代様がみてる 3