ライナスの毛布






「すく!すくー!」

「う゛お゛ぉい!走るなぁ!また転ぶぞぉ!」

ぬるま湯の中でたゆたうような記憶。

柔らかな肌。短すぎる手足。伸びきらない指先を伸ばせば、必ず抱き上げてくれる腕があった。

白い柱に白い壁、赤い絨毯が敷き詰められた廊下が印象的なお屋敷の中を、寸足らずな俺が無邪気に駆け回っている。

父の姿がないのはいつものことだった。

母の姿がないのは……町内会の集まり、旅行だとかで出掛けているのだ。

本当はお誘いを断るつもりだったらしいのだが、それを知った父や……お隣の家の白いお髭のおじいさんが「たまにはゆっくりしてきなさい」と背中を押したんだっけ。

渋りながらも嬉しさを隠し切れずに笑顔で手を振る母さんの姿は、うっすらだけど記憶に残っている。

だが、俺を預かったはいいものの、父さんは仕事に駆り出される羽目になり……俺は…。

「す……うぶっ!」

「!!見ろぉ!言わんこっちゃねえ!」

地面に顔面を打ち付けた衝撃と驚きによって、自然と涙が滲む。

痛みはその後から。

じわじわと、膝や掌から伝わってきたヒリつく痛みが涙腺の緩みを増長させて。

「ぅ……うう、うわぁあああん!すくー!」

「ああはいはい。わかった。わかったからこっちこい」

転んだままの体勢で、前にいた人物に向かって泣き声を上げる。

ゆっくり、一歩一歩近づいてくる確かな足取り。

陽の光をいっぱい取り入れる窓によって眩さの世界にいるその人を見上げれば……銀色の髪がキラキラ輝き、なお俺の視界を光で埋め尽くした。

ツンと冷たくなる鼻を啜りながら、ヒリヒリちくちくと痛む膝に力を込める。

身体を起こすことを、きっと彼は望んでいるから。

自分で立ち上がれば、必ず彼は褒めてくれた。

転んだとしても己の手で、足で、力で立ち上がることが大切なのだから、と。

どんなに涙を流したとしても必ず自分で立ち上がれと諭した、鋭い瞳が衝撃的だった。

腕に力を込め、上体を起こして彼を見上げる。

間近に迫る体躯は俺を包みこむように見守っていて。

「すく…」

ポロリとまたひとつ。

頬を伝う涙をそのままに腕を伸ばせば、緩やかな空気の流れが俺の身体をくすぐった。

脇に差し入れられた掌は、こそばゆさよりも力強い穏やかさを纏って俺を支える。

ぐっと上がる視点。

抱き上げてくれる腕の温度。

「だぁから走るなっつっただろぉ」

『よっ』という小さな掛け声と共に、膝の裏へ曲げた腕をもぐりこませたその人は、鼻先を寄せて目を細める。

耳の後ろへ流れる銀髪は風を受けているかのように跳ねて、陽光を照り返して……お昼間の現在でも、夜闇を彩る星屑を思わせた。



その人は呼べばいつでも傍に来てくれた。

姿が見えないと探し回り、見つければぎゅっと服の裾を掴んで離さずに。

忙しい父やおじいさんに代わって、俺を託されたその人は厳しい面を見せながらも俺を優しく包み込んでくれた。

「おいカス、何泣かせてやがる」

「てめー!十代目をいじめたなー!」

「よおツナ!オレとあっちであそばねえ?」

俺を慕ってくれる友人に囲まれていながらも、俺は決して、その人から離れることができなかった。

暖かで、優しくて、大好きで大好きでたまらないぬくもり。

「泣くなよ綱吉。おら、遊びに行くぞぉ!」

俺よりも大きな手に高い背で、ぎゅっと手を握ってくれる、その人は――。







「う゛お゛ぉい綱吉ぃ!!いつまで寝てんだ、襲うぞぉ!!」

「ふえあぁあ!?」

ばっさぁ!と大げさなモーションで引っぺがされた掛け布団。

途端に身をくるむ、刺すような冷気。

反射的に手足を縮め込むも、一度触れてしまった冷たさに指先は震えっぱなしだ。

「んんー!寒いぃ…!」

「ったりまえだろぉ。窓開けてんだからよぉ」

「まだ寝るー…眠いー…!」

「今日出かけるから付き合えっつったのはお前の方だろうがぁ!起きろぉ!」

「―――んぎゃあ!!」

寝巻きの背中がベロリと持ち上げられ、外気が肌を這い回る。

不意を突かれた衝撃に手足を伸ばせば、この好機を逃してたまるかと言うかのような腕が俺の手首をしっかりと捕らえた。

「う゛お゛ぉい!綱吉ぃ!」

引っ張り起こされ、身体ごと彼に向き直る。

彼の肩から滑り落ちた髪が一束、風に乗って俺の頬を擽った。

「………もう一度言う」

ぼんやりと霞に覆われた思考払わんとするかのように、耳穴へと吐息が吹き込まれて。



「襲うぞ?」



腰骨の辺りから瞬間的に、悪寒にも似た…でも嫌な感じは受けないぞくりとした感覚が這い上がる。

普段よりも幾分下がった低い声音は、眠気を引き摺る頭にもすみやかに浸透するようで。

「ふおお!?」

手首を掴む指を振り払い、俺はパチリと目を見開いた。

お、襲うってなんだ!

「よお、お早いお目覚めだなぁ綱吉」

「……ん…それが嫌味だとわかるくらいにはちゃんと目が覚めたよスクアーロ」

俺の方へ傾けていた身体を起こし、顔を覗き込んできたスクアーロはニヤリと歯を見せて笑んでいる。

が、どうみても嫌味っぽい。

「…っていうか、どこから入ったの?また母さんが勝手に入っていいとか言った?」

いきなりは困るから俺に一言断りを入れてくれと頼んだはずなのに。

「いや。面倒だったから、そこから」

そこってどこ、と眉間に皺を寄せてやれば、『そこだ』と指し示されたのは……カーテンのはためく青い空で。

「……え!?窓!?窓から入ったの!?」

「鍵くらい掛けて寝ろよ。無用心だな」

「いやいやいや、ここ二階だよ!?めちゃくちゃ危ないじゃん!」

「そうかぁ?まったく問題なかったぜぇ」

ケロリと。

むしろ俺の方がおかしなことを言っている、とでも言いたげな表情で見つめる視線は、非常に直線的で困る。

澱みのないまっすぐな眼が、俺は昔から好きだった、けど………最近は特に、意味もなく困ってしまうのだ。

腹の奥底がざわざわとさざめくような感触が、熱くって擽ったくてたまらない。

なんでだか、よくわからないのだけれど。

とまあ、そんなことは置いといて!

窓は危ないだろう窓は!

うへえ、と唇を歪めながら窓の外を見やれば、白いレースのカーテンがはためくお隣さんの窓が見て取れる。

開けっ放しなのは…当然だ。

そこから出て屋根伝いに進入したのだろうから。



昔から。そう、昔から。

八つ年上の彼、スクアーロは家が隣り合っているということと、父さんの血筋の血縁者…いとこということもあってかずっと俺の傍にいてくれた。

…そういえば、今日みた夢にもスクアーロがいたような気がする。

どこか、白くて大きなお屋敷で……。

「う゛お゛ぉい!なにぼんやりしてんだぁ!なんなら着替えも手伝ってやろうかぁ?両手上げろぉ」

「は!?い、いらない!いらないから!ちょっと下で待ってて!」

物凄く楽しそうな声音と共に伸びてきた手を押し戻しながら慌てて叫び声を上げれば、スクアーロはフンと鼻を鳴らしてあっさり身を引いた。

からかわれているという事実はよくよく理解しているのだけれど、それを平常心で受け流せるほど、俺は成長しきっていない。

何年経っても、スクアーロは俺にとって手強い相手に変わりはないのだ。

「さっさとしろよぉ。あんまり遅いと手伝いに来るからなぁ」


「だから手伝いはいらないって!!」

バカ!と罵声を浴びせながら、のっそり立ち上がる背を急かして部屋の外へと追いたてる。

本当に、この人は…。

自分の友人や兄弟には頭が上がらないというのに、俺に対しては常に強気で意地悪で…。

それでも絶対嫌いになれない、というのは…。

「…小さい頃からの刷り込み、なのかなぁ…」

嫌いどころか、むしろずっとずっと大好きで。

『大好きなお兄ちゃん』のままで…。

……おお?ちょ、ちょっとまて。

『大好き』とか、なんだか恥ずかしくないか、この年で…!

で、でもなぁ…絶対『嫌い』ではないし…『普通』でもないし……『好き』だけで片付けるにはちょっとばかり大きな存在な気がするし…。

ってやっぱりこれ、恥ずかしい!

なんかほっぺたに熱が集まってきたし!

両頬を覆う掌に自分でもびっくりするぐらい熱が集中しているし――



「う゛お゛ぉい!綱吉ぃ!まだ――」

「ぎゃあああ!!」



突如、ガチャバタンと派手な音を立てて開かれた扉に向かって、俺は枕を投げつけていた。







「こうやって一緒に歩くのって久しぶりじゃない?」

「だなぁ。ここ最近はなんだかんだで忙しかったしな」

俺もお前も、と付け加える口調はのんびりゆったり。

ぽかぽかし始めた日差しを受けながら、肩を並べて歩くのも、幼い頃は日課のようであったのに。

眼を細めて空を眺めるスクアーロの醸す雰囲気は、辺りの空気に似て穏やかそのものだ。

中学に上がった俺と、論文に追われる大学生のスクアーロでは、互いの学生生活に囚われて会う機会がめっきり減ってしまっていた。

仕方がないこととはいえ、やはり少し…いや、結構寂しい。

「学校は…並盛だろぉ?」

「うんそう。山本も獄寺くんも一緒でね」

「あいつらかぁ。昔っからお前命な奴らだったからな。当然といえば当然だが…」

「え?俺命?なにそれ?どういう意味?」

「……当人がわかってないっつうのが、あいつらが報われない最大の所以か」

斜め下へと視線を流すスクアーロの様子はどこか同情の空気を漂わせているけれど、いまいち意味が掴めない。

山本も獄寺くんも幼馴染で、友達だけれども……ああ、そういう意味では特別に仲がいい友人ではあるな。

「そりゃーすっごく仲良しではあるけど、俺命っていうのは言いすぎじゃない?」

と言い放った瞬間にスクアーロの口元が引きつったのを見逃しはしなかったよ、俺は!

「まあ、お前がそう言うならそれでいいがなぁ…」

「なにー?なんで目を逸らすのさぁー!」

俺とは反対方向の空を見上げるスクアーロに対して頬を膨らませるも、こちらを見ないので意味を成さない。

もう!

「大体俺は――」

「十代目ー!」

「よおツナー!」

……噂をすればなんとやら、か。

住宅街を抜け、踏み切りに差し掛かった所。

カンカンと鳴る遮断機の向こう岸で見慣れた顔が二つ、手を大きく振っている。

一人はスクアーロとは少し違う、キラキラというよりは重みを持った銀色の髪の、爆裂するかのような勢いを伴った少年。

もう一人はスポーツバッグを肩から下げた、黒髪の、笑みが似合う快活な少年。

「げ。めんどくせぇ」

「面倒臭いって…二人とも、スクアーロの幼馴染でもあるだろ」

獄寺くんと、山本。

二人とも俺の幼馴染、ということは俺の側についていてくれたスクアーロにとっても幼馴染、なはず。

「幼馴染だろうが親友だろうが悪友だろうが、めんどくせえもんはめんどくせえ」

激しく甲高い鐘の音を響かせる合間に、スクアーロの眉間には深く深く谷が生まれてしまっている。

地面を揺すりながら騒音と振動を纏う電車が、俺たちと山本や獄寺くんとを分断しているが…さて、どうなることやら。

「まず奴らをいなすのも受け流すのもめんどくせえ」

「んーまあなんでか目の敵みたいにされてるもんねえ。特に獄寺くんに」

「不思議でもなんでもねえよ。ついでに山本もだ。あいつの腹は黒すぎる!」

「ええ?そんなことないよー?山本ほど常に笑顔で明るくていい奴いないと思うけど?」

「……それが、奴の腹黒さだっつうんだぁ」

と、話している間に轟音は過ぎ去っていて。

ぴたりと止んだ鐘の余韻を鼓膜に残しながら、遮断機が上がっていく。

「次に…あからさまにお前を狙ってやがる態度が気に食わねえ」

「へ?」

「というわけで」

心底忌々しげに舌打ちをかますスクアーロを見上げ、ぽかんと口を開く俺に向かって、長い腕が伸びてきた。

何事かと首を傾げる暇も与えられないまま、腕はすみやかに腰へと絡み付いてきてしまって。

「逃げるぞぉ!」

挙句、グイっと引き寄せられながら方向転換を強いられてしまった。

真っ直ぐに前へと突き進んでいく人々の合間を縫いながら、線路沿い、側道へと俺を連れ去るスクアーロ。

「十代目!?――おいこら鮫野郎!待ちやがれー!」

「おいおい、ツナは置いてけよスクアーロー!」

遠くから投げかけられる声すら振り払いながら早足に角を曲がるスクアーロの口許は、至極楽しげに曲線を描いている。

ああ、もう。

なんだろう。

なんだかよくわからないけれど、こうして二人で逃げ出すのが、俺の血を沸き立たせている。

心臓が、血管を流れる血液がやけに熱い。

「遠回りになるが、河川敷の方から行くぜぇ。ちゃんと着いてこいよぉ!」

「わかってるって!俺だってもう中二なんだからね!」

歩幅の違いなんて若さと体力で補ってやる!と強気の視線で見上げれば、上等だと語る口や目元にクっと刻まれる笑み。

俺の腰を支えて進むスクアーロの服の裾を掴みながら、俺は浮かび上がって爆発しそうになる、熱を孕んだよくわからない感情を、必死に抑えこんでいた。



「嫌がらせも邪魔も多いだろうが……今日は『二人で出かける』っつう約束だったからなぁ」

「え?なに?何か言った?」

「いや、なんでもない」



スクアーロのスピードに着いていくのに必死だった俺は、俺を見下ろす視線の深い意味にも、俺自身の奥底に息づいている感情にもまだ気付くそぶりはないままで。



この人の手を、俺はどうしても離せない、特別な存在として依存しきっているのだと自覚するのは、もう少し先の話。









ライナスの毛布



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