むせ返る熱気が、心臓を縮めるような独特の芳香と共に身をくるむ。

視界が、いつもより狭い。

小さく脆くなった世界が、俺の歩みを受けて柔くたわむのだ。

「なんだぁ……これは」

脳天から降りてくる気だるさを振り払うように髪をかき上げながら、俺は足早に屋敷を闊歩していった。





シンティラ





(うっ……くそぉ……!)

突き抜けるような寒気がぞくりと背筋を駆け上る。

何かに戦慄したわけでも、狂喜したわけでもない……ということは。

「やっぱ昨日のアレが効いたのかぁ…?」

秋と冬、冷え込みが勢いを増してくるこの時節に、凶悪な暴君によって苔だらけのプールに放りこまれたのはさすがに堪えられなかったようだ。

(まあ、いつもより若干調子が出てねえってだけで、問題はなさそうだがなぁ)

日に日に打たれ強くなっていく我が身を思って、良いのか悪いのか、と思案するのはもう無駄だと学習した。

考えたところで、救われるなどということは微塵ありはしない。

虚しさが一層広がるだけだ。

「……ふん」

乾いた笑いが顔面に貼り付くのを避けられぬまま、俺はふと足を止めた。

気付けば、目的地を通り過ぎている。

「う゛お゛ぉい!ありえねえぞぉ!」

そこまで耄碌したのか俺。

くるりと方向転換しながら、周囲に注意と殺気をめぐらせる。

ぱっと見ただけでは俺の失態など気付かれないだろうが……油断できないのがこの屋敷だ。

……右よし、左よし。

とりあえず俺が察知できる限りの範囲に目撃者はいない。

ぼんやりと靄が絡みつくような意識を正すことも出来ぬまま、気だるい体を引き摺って、俺は扉の前に引き返す。

引き返す、といってもほんの数歩だ。

恥ずべきことなど、何もない。ああ、何もないとも。

はぁ、と零れる呼気が妙に重い。

熱を孕んで空気中に陰気を撒き散らした。

ああ……なんだぁ?

腕を動かすのも億劫になってきた。

腕の関節が奇妙に軋む。

「なんなんだぁ……これは」

とにかく、用件を済まさなければ。

そうしてさっさと自分のテリトリーへ帰ろう。

ここは……あまり長居して気分のいい場所ではない。

なぜなら……あいつが、いるから。

俺を惑わせる、あのクソガキが、いやがるから、な。

腹から胸へ、せりあがる不快感から目を逸らしながら、スクアーロは気をとりなおして拳を握った。







「…?」

糸ミミズが這った跡のような文字列から顔を上げて、正面を見据える。

ゴッゴッとやけに重いノックが鼓膜を震わせたのは、約一分前。

了承の意を示し「どうぞ」と、言った、よね?と思い返しながら、綱吉は手を止めた。

人の気配はある。

聞こえなかったのかな?と反省し、再度「どうぞー!」と強めに叫んでみるも……。

「………」

部屋は依然静まり返ったままだった。

「あれ?なんで……って、ああ!!」

紙にペン先を押し付けたまま静止してしまったが故、インク染みがぽっかりと黒い穴を生んでいた。

「あー……またリボーンから文句を…………ん、まあいっか」

それよりも、とペン立てに万年筆を突き刺しながら、俺は椅子を後ろに引いた。

汚してしまった書類は、うん。作り直せばいいのだ。手間は、かかるけれど。

お説教も食らうし、時には泣き付かれたりするけれど。

それよりも!目の前の不可思議な事態の方が興味をそそられる。

ノックをしておきながら一向に入室しようとしない気配。

殺気は感じられなかった。

第一、そういう類の人間はここに到るまでにボンゴレの皆々様が排除してくださる。

ここはアジトの中でも厳重な警備が敷かれた『十代目の執務室』なのだ。

侵入者はほぼ、ありえない。

それが、ありえるのだとしたら。

「よほどの手練か……内部の人間か」

どちらにしろ、危機感を感じない現状からして、命の危険はないものと信じている。

困ったときは己の直感を信じて行動してみろ、とは、最強の家庭教師殿の言だからだ。

ならば、行動してやろうじゃないか。

無性に気になるのだ。うんともすんとも言わぬ、扉の向こうが。

コロコロと後ろに滑っていく椅子を振り返ることもなく、足を踏み出した。

毛足の長い絨毯が足音を奪い去っていく。

来客用のテーブルとソファの脇をすり抜け、扉まで。

無駄に広いんだよなこの部屋、などと嘆息するも「十代目の部屋なのですから!」と質素には出来ぬ現状を懇々と諭されたのも昔の話ではない。

誰にどう思われようと気にしなきゃいいだけなのに、と思ってしまう自分はまだ子供なのだろうか。

はあ、と一つ息を吐き出しながら、音もなく両足が揃えられる。

眼前のドアノブを掌で覆えば、ヒヤリとした感触が肌を駆け上った。

さて。

指がノブの形に添って折られ、手首を反して扉を押す。

「どちらさま……って、え?」

開かない。

「あれ?え?」

何度も確かめるようにスナップを効かせれば、ガチャガチャと騒がしい音が室内に波紋を広げた。

ノブは回るし、五ミリくらいは隙間が開くから、鍵がどうの、という問題ではないのだろう。

「え、あれ?お、重っ」

戸板が向こう側へ動かないのだ。

何か重石が、俺の退室を許さないと蓋をしているかのように。

……まさか。

「まさか、閉じ込められた?ええ?そんなバカな!」

仕事を完了させない限り、お部屋からお出ししませんよ十代目!という声なき報復なのだろうか。

いやいやいや、そんな酷い。

監禁?軟禁?勘弁してください。

仕事に殺されるような人生は歩みたくありませんっ!

大体閉じ込められてまでこなさなきゃいけないような重大な仕事は回ってきていなかったはず。

ありえないありえないありえない!

「ううー!蹴破って、みるかー!?」

ドアはおじゃんかもしれないが、俺の平穏は保たれよう。

マフィアの仕事に押し潰されるようなことになるくらいなら、ドアの一つや二つぶっ潰して、走って家に帰りますよ!

どんどん上がるテンションをいさめる抑止力もあるにはあるが、それよりも勢いが勝っている。

そうだ。蹴ろう。

殴るのは痛いから蹴り飛ばそう。

蝶番よさらば。

俺は広い世界へと旅立ちます!

いざ行かん、俺の平穏パラダイス!!



すう、と息を吸い込み、数歩距離を取った俺は、迷いなく渾身の力で右足を扉に叩きつけた。



バキィ!

ドゴーン!!

ぐぇええ!!!



「………ん?」

蹴りを繰り出した体勢のまま固まって様子を見ていたが、なにやら……奇妙な音が混じらなかっただろうか。

「ん?……んん!?んんんんん!?」

扉は開いていた。

残念なことに、蝶番は外れていない。…いや、別に残念ではないが。

いやいや、問題はそこではなくて、だ。

開いた扉が余力でユラユラと揺れている。

その、脇。

なんだか黒い塊が見える。

「……え」

俺、やっちゃった?

血が沸騰するんじゃないかと思えるほど、鼓動が激しく唸りを上げる。

倒れる人影。

うん、あれはどう見ても人だ。

「やば…!」

慌てて、もつれる足を踏み出した。

いけない。

自ら動き出さないということは、危険な状態やもしれない、ということだ。

とにかく、救護室か、人を呼ぶか。

に、してもまず確認だろう!

こんがらがる思考をなんとかなだめながら、俺はうつぶせに倒れる被害者の横に膝をついて………。



「あ」



顔を確認して、息が止まった。

そこに倒れ伏していたのは……見覚えのある銀髪だったのだ。



「ちょっ!スクアーロ!?」

何故彼が。

あ、報告か?

いや、でもなんでスクアーロ自ら。

ヴァリアー関連の報告は書類だけが己の元に届けられるのがセオリーと化している。

暗黙の了解を破るほどの緊急事態?

だがそれだともっと気配は尖っているだろうし、ノックなんて悠長なことを介さないのが彼が彼たる所以なのだし。

何故、何故、何故。

「……あ、いや、それよりも…!!」

意外な人物の唐突な登場に理性を揺さぶられたが、倒れ伏したままピクリとも動かない彼の現状にハッと己を取り戻す。

「スクアーロ!大丈夫、スクアーロ!」

ここで反応がなければヤバイ。

ペチペチと頬を軽く叩きながら、彼の名を連呼した。

頼むから、返事してくれ。

「スクアーロ!!」

「……う……」

「!!スクアーロ…!」

閉じられた瞼の間から睫毛が緩く震えを見せる。

ああ、最悪の事態は避けられたようだ。

よかった。死んでなくてホントよかった。

邸内で人身事故、なんてそうそうお目にかかりたくはない。

「…う゛、お゛ぉい……一体…」

「あ、気付いた。立てる?歩ける?とりあえず傷ない?ソファあるからそこまでなんとか…」

「……ああ、お前、かぁ…」

焦って早まる俺の口調に頭を押さえながら、スクアーロは自力でゆっくりと身を起こしていく。

……なんだろう。

なんか…いつもと雰囲気が違う。

声も……スクアーロにあるまじきほどの小ささだ。

「痛い?よね。大丈夫…じゃなさそうだし。と、とにかく部屋の中へ―――」

「ああ、そうだ………お前に、九代目、からの、言伝、が……」

殊更ゆっくりと立ち上がるスクアーロの腰や腕に手を回しながら支えていた、が。



一歩。



たった一歩。

室内へ踏み入った、瞬間。



「え」



目元を暖かく柔らかな感触が覆いつくす。

「え、ええ!?」

真っ暗な視界の外から、全身に向かって、押し潰すような重圧が伸し掛かってきた。

「ええええええ!?」

ズルリと脇腹を這うスクアーロの手。

意図した動きではない、というのは重力にひっぱられるようにダラリと伸びた(らしい)感触で感じ取られる。

脱力する、スクアーロの体躯。

「あ、ああああああー」

支えを失った、自身より大きな男の体を咄嗟に支えきれるほど、普段の俺は力自慢ではない。

よって俺は、地球の法則に準ずることになり……。

二人して倒れこんだ先が、ふかふかの絨毯の上だった、というのはせめてもの救いだった。







やけにふわふわとした感覚が俺を包んでいる。

心地のよい肌触り。

柔く、弾力のある感触。

居心地のよいぬくもり。

心の平穏をもたらすような、鼻腔を擽る香り。

……この香りは……?

……ああ。あいつか。

確か躓いたんだか階段から落ちかけたかした時にでも、気まぐれに助けてやったんだった。

状況なんざはっきりとは覚えちゃいないが。

感触、匂い、意外としっかりとした身体つき(といっても俺たちにははるかに及ばないが)に目を見張ったことだけは、記憶にこびりついたまま、離れない。

気まぐれだ。単なる、気まぐれだったのだ。

だが…その気まぐれがいけなかった。

他人を意識し始めるきっかけなんざ、些細なことの方が多いに決まっている。

劇的な出会いなんざそうないように、他人を気にかけ始めるきっかけも、ちょっとした接点からの方が大いに可能性が高かろう。

……ああ、やめてくれ。

俺を惑わせてくれるな。

ふと目で追ってしまう、などと、バカらしい。

こんな感情はいらない。

こんな感情は知らない。

知らないままの方が、都合がいい。

常に否定し続けていなければ……途端俺は、俺でなくなる。

俺を惑わせるな。

わけのわからない、この感覚で、身を滅ぼしたくは、ないのだ。



『スクアーロ』

呼ぶな。

『スクアーロ、ねえ』

その声で。俺の名を。

『スクアーロ、スクアーロ』

呼ぶな……頼むから。

弱くなる。

そんな予感がするのだ。

この奇妙な、許しがたい感情を、受け入れてしまったなら。

力が全て。ならば。

俺は、弱い自身を拒まざるをえなくなる。

『スクアーロ』



「……綱吉」



焦がれる肢体が目の前に横たわっている。

夢か。

幻想まで生んでしまったのか、この妄執は。

「綱吉…」

腕を回して力を込めれば、ぐらぐらと揺れる思考力がふと軽くなったような気がした。

熱にでも、浮かされているのか。

「つな、よし……」

声を出すのも、辛い。

だが不思議と身体を苛んでいた痛みは消えている。

……やはり、夢、か。

「俺、は……」

首筋に鼻先を埋めれば、甘く満たすような体臭がふわりと香る。

不快を伴わぬ、どの香水よりも、甘美な媚薬。

……夢ならば。

熱に浮かされた、都合のよい幻想ならば。

許される、だろうか。

いや、やめておけ。

わずかだろうと、隙をみせてはならない。

そう、自覚、しているのに……。







「お前が、欲しい」







口が滑る。

意識に反して零れた呟きに、触れる肌がぴくりと震えた気が、した。



「他の奴に笑いかけるな」



馬鹿なことを、と自分でも重々理解している。



「他の奴に触れるな」



こんな感情は、余計だと。



「他の奴に近づくな」



俺にとっても……こいつにとっても。

余計な、無用な、感情だと。

言葉、なのだと。



「お前を、俺だけの、ものに……」



だが、まごうことなき本心だった。

抗いがたい、暴走する鼓動。

否定することだけで、俺は俺自身を保ってきた。

今までも、そしてこれからも。

……今だけだ。

この瞬間。この刹那。

今だけ、だから。

都合のいい、俺の夢ならば。

この咎を、どうか一瞬の気の迷いだと。



流してしまえ。

許してしまえ。













「………」

スクアーロの身体は、重度の体調不良をその体温で如実に示していた。

「熱い…すごい、熱」

こんな高熱で、よく出歩けたものだ。

九代目の勅命だといっても、こんな身体で動き回るだなんて、酷い、無茶を。

だが。

だが、それよりも。

いや、それよりも、なんて言うのは不謹慎、だけれど。

それ、よりも。

「………どうしよう」

スクアーロの正常な思考は、きっと熱に焼かれて、切れてしまったのだ。

俺に覆いかぶさったままのスクアーロは、全体重を預けて再び瞼を閉ざしている。

首筋を擽ぐる熱を伴った呼気は、俺の脈拍を高めるだけ高めながら、今も間近で。

どうしよう、どうしようどうしようどうしよう!

居たたまれないんですけど…!

なんとか自由の利く腕で目元を覆い隠しながら、呼吸音と鼓動だけが響く二人きりの空間を自覚する。

火が点いたようにボっと熱くなった顔面が憎い。きっと真っ赤だ。たまんない。

「勘弁してよ…ほんと…」

鼓膜を優しく擽った少し掠れた声音が、今も頭の中でループしている。

熱い。

すごく、すごく。

恥ずかしいとか照れくさいとかよりもずっとずっと、胸がいっぱいで。

何もかもがない交ぜになって、ぐるぐると回り続ける幼い熱。

『お前が欲しい』などと。

「う…わぁ……!」

思い出すだけで涙が出そうになる。なんでだ。

はあ、と思わず零した息は熱を孕んでいた。

どうしよう。

スクアーロの熱がうつったのだろうか。

立ってもいられなかったスクアーロは、扉に寄り掛かって意識を飛ばしていたのだろう。

ああ、俺が扉を開かなければ。

俺が、きっかけをつくらなければ。

こんなことには、ならなかったかも、しれないけれど。

「うう、うううううううー」

上手く、全てを無かったことにして振舞うなんて、出来ないだろう、俺は。

…どうすれば、一番、いいんだろう。

絡みつくような両足にドキドキする。

頬を掠める銀糸にクラクラする。

ずっしりと重みを感じながら。

緩く抱き締められながら。

俺はうまく働かない脳みそを励ますことすら、どんどん出来なくなってきている。

心臓が口から飛び出そうなほど爆裂して、ほんと、たまんない。



鳴り止まぬ激しい鼓動。

拒絶感のない、ぬくもりを甘受する態度。

揺れ動く、感情の行き着く先。

知れば引き返せない、修羅の道。

何も、何も考えられない。

けれど。



今は、なんだかほんわりと包んでくれる穏やかなぬくもりに、縋りついていたい、だけだから。



彼が目覚めたら、真意を聞いてみようと思う。

それで……世界がどう変化するかなんて、今の俺では予想できないけれど。

だから。

だからこそ。

今は、どうか、もうしばらくだけ、このままで。







飛び火する火種が生んだ世界で、どう生きていくのかなんて、その後の自らの選択次第なのだから。











シンティラ ―火種―























長い…また無駄に長いですね…。
彼岸の穂月様に捧げさせていただきたく思う、の、ですが…。
これは……いいのでしょうか…orz
私テイストの溢れるスクツナ、と言っていただけたので、もう、好き勝手してしまったのですが……ですが……勝手、しすぎたような気がしてなりません…。
ううおおお…返品可ですので…!
穂月様のみ、お持ち帰り可、ということでお願い申し上げます。
リクエストありがとうございました穂月さん!
今後もどうぞよろしくお願いいたしますーーー!!!