上司×部下
入社三年目の夏。
社会人になってようやく『新人』の枠から足を一歩踏み出そうかという頃合いだ。
ゆっくりと太陽が高度を上げていく熱いとも涼しいとも言い難い空気の中、同じ方向へと歩く人々の波に紛れて、ゆっくりと遠く近く、巨大な自社ビルを見上げる。
高層、四十階建てのコンクリート製の箱は本日も他企業のビルと張り合うようにドンと佇んでいる。
ああ憎い。いっそ爆発してくれまいか、と願ったことは数知れず。
完全に実力で、とは言い難い、親のコネを利用して入った会社はなかなかに大きな…というか、世界進出も果たしている大企業で、
同期入社の数も二桁…ギリギリ三桁にはいかない程度いたはずだが、一人また一人と脱落していき、今や半分にも満たない。
合同研修を経て各部署に配置されたのち、先輩社員がマンツーマンで指導していく形だったのだが、やはり合う合わないがあったり、
早々に見切りをつけて別の道を選んだり、ただただ根性が足りなかったり……所謂ゆとり世代と括られてしまう現代っ子揃いだった。
いや、それが悪いわけじゃない。
そんなもんだということが言いたいわけで。
俺とて、心が折れなかったことなどない。
むしろ何度だってポキポキと容易く折れて折れて折れまくってきたものだ。辞めたい辞めたいと唱え続けて部屋の床を転がりまくることもしばしば。
だが。
実際に、辞表を提出しようとまではいかなかった。
理由は三つ。
一つ。転職活動が、うまくいくとは思えない。
前述した通り、俺が入った会社は大きい。
どうしても自力で内定が取れなかった俺に手を差し伸べたのは両親で。難関中の難関…に、親のコネをフル活用してなんとか滑り込んだようなものだ。
つまりは、そのコネに頼らず独力で就職先を探す、となると非常に苦しい現実が待ち構えているわけで。
ニートの道を簡単に選べるほど立派な夢や理想はないし、目指す所も見当たらない。
二つ。『転職』する動機がない。
辞めたい想いはあっても、職を変える理由はないのだ。
何かしたいことがあるのかと問われても無言を貫く他ない現状で、わざわざ就職戦線の只中に真っ裸で飛び込むような真似はしたくない。
そして、三つ目。
エレベーターでたどり着いた二十五階。
数人の同僚や先輩達と共に廊下を歩く中で、俺の脚はどんどん重みを増していく。
ああ、今日も、『今日』という一日がまた始まってしまうのだ。
出勤時のみ開け放たれている扉を抜け、ズドーンと広がるフロアは整然と並ぶ机の迷路。
パーテーションで区切られることはないものの、各人の書類やら私物やらで個性を宿したデスクの上は並びと反して乱雑で。
自分の席まで重い脚を引きずって進む。
音を吸い込むカーペットを土足で踏みつけながらも、溜息をひとつ。
「ヴおぉい朝から辛気臭い顔してんじゃねぇ」
………きたよ。
理由、三つ目。
「クールビズだからってここも開けっ放しにしていいわけじゃねえだろぉが」
「わっ!や、やめてください!」
突然目の前に現れた長身の男から伸びてきた手が、俺の腹部をわし掴む――と同時に、留め忘れたのであろうボタンが外れたワイシャツの合わせ目から親指をぐっと突き刺してきた。
グニュリと歪むお腹。痛い。地味に痛い。
「これだからお前はいつまで経っても半人前なんだろぉ」
ボタンも満足に留められないなんてどこの小学生だぁ、なあ小デブちゃんよ。と、続く言葉に俺は口をパクパクさせるだけ。
わし掴まれた腹部。それは紛れもないボヨンボヨンの脂肪の塊で。
「……なんでこうなっちまったんだろうなぁ?」
呆れたような溜息が、頭上に降り注いだ。
ああそうさ。俺は太ってますよ。ベルトの上に肉が乗ってるし、つまめるし、段もくっきり三段あるさ。ほっぺたがプニプニで気持ちいいだのと、仲のいい同僚には男女関係なくつつかれる始末だ。
でもこれだけは言わせて欲しい。
最初からこうだったわけじゃないんだってこと!
三年でみるみる肥えた俺の体。目の前の男はその過程をよく、よーく知っているはずで。
「ダイエットでも始めた方がいいんじゃねえかぁ?」
掴んだ肉を上下に揺らす男の名はスペルビ・スクアーロ。
三年前、俺についた指導係にして上司。
役職は課長。
俺の指導についた三年前は係長だったけどね!
異例のスピードで出世街道を突っ走るこの男の存在こそが、俺が辞めるに辞められない最大の理由だった。
以上、本文より一部抜粋。